2012年2月17日金曜日

乃木希典の生き方と影響、そしてその賛否。

  たまには本の事も書こうと思う。年がら年中建物の事を考えてはいるが、息抜きにはちょうど良い。それに建築をやる人間は歴史も知らないと面白い建物は出来ない気がするからだ。

  乃木希典という人がいる。この方は戦前は、日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎と並び、『聖将』 とよばれた人。また戦後では評価は一変し『愚将』 などという評価をする人もいる。では何をした人か。日本人は歴史に興味がないという方が多いので、詳しくは福田氏の本を読んでもらうとして簡単に説明する。

  日本がその国力をすべて賭けて戦った日露戦争。西暦で言うと1904年から1905年にかけて帝政ロシア(ロマノフ王朝)と戦った戦争なのだが、結果から言ったら日本の勝利。だいぶ辛くもあったがとにかく勝った。一般の人々はこの意義を分っていない。大航海時代に始まった白人至上主義以降、白人以外の国で白人国家に勝った事はないに等しい。そして世界的に見ても久しぶりの大きな戦争だった。人によっては世界第0次戦争などと言う人もいる。特にアジアやアフリカに与えた衝撃は非常に大きい。当時当地域は植民地支配を受け、人々は白人に奴隷扱いをされていたから、その白人に同じ有色人種である日本人が勝つという事は、天と地がひっくり返ったぐらいの衝撃を与えたわけだ。

  この戦争で乃木将軍は旅順を攻めるという、自殺に近い命令を受けそれを実行し成し遂げた。この旅順は永久要塞と呼ばれ、コンクリートで固められた当時世界最強の要塞。海軍が取り逃がした旅順ロシア艦隊を打つため、旅順湾港がすべて見渡せる203高地を肉弾で奪取した。肉弾とはまさに字のごとく、機関銃で撃ってくる敵めがけて真っ正面から攻める事を言う。愚かな作戦と思うかも知れないが、当時はこの方法しかなかった。この戦術が変わるのは第一次世界大戦でイギリスによる戦車が登場するまで待たねばいけない。そして水師営という場所で敵将による降伏を受け入れる時、敵将に完全武装を許し、敵を敗軍の将としてではなく、友人として扱った。また世界中のカメラマンには写真一枚以外はとらないよう厳命している。この行為は世界に大賞賛され、戦後は各国から勲章をもらっている。

  そして日露戦争後は、自分の子供への教育は失敗したと考えていた明治帝の命令で初代学習院校長に就任し昭和天皇の教育係となっている。そして彼の最後は非常にドラマティックだ。明治帝が崩御したのち大喪の礼を見届けた後、妻静子夫人と共に自宅で自刃している。その理由は、西南戦争のおり連隊旗を敵に奪われて事。また日ロ戦争において多くの将兵を死なした事だと言われている。

  その後日本の社会に残した乃木の影響は大きいと言えるだろう。各地に神社が並び立ち、戦前は乃木将軍と言ったら日本の道徳教育に役立った。日本人はかくあるべしみたいになっていったわけだ。しかし戦後に批判が出てきた。司馬遼太郎などがその代表だったりする。

  しかしその道徳精神は最近再評価されてきている気がする。8月15日に靖国神社などにいったら、いっぱい乃木将軍がいたりしても誰も文句を言わない。まあ知らないだけかも知れないが。。上記写真の本は福田和也氏による。僕はこの人の本は分りやすく面白いので、他の本と共に僕の蔵書の中でも目立つところにおいてある。

  昭和20年8月を持って日本人は大きく変わった。良いところもあるし悪いところもあると思うが、知らないでのほほんと生きている。それでは人間として全く面白く無い。知識とは知ってどうこうするものではなく、知って楽しむものだから。

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