2013年8月31日土曜日

『山火事の記念日』 という迷惑

   今日は僕の地元の地区で 『火記念』 という集まりがあった。 『火記念』 と言うのは僕の地区のお祭りである。昨年死んだ僕の爺さんがまだ小学校に上がるちょっと前の事、僕の住む地区では山火事があり、近隣住民みんなが焼け出されてしまったと聞いている。僕の爺さんが幼い頃だから大正末期か昭和初期の事だ。台風が接近している今日のような天気だったのかは分らないが、思った以上に火の周りが早かったようで、みんな何にも持たんと避難したようだ。だが僕のご先祖さんはお侍をやっていたので、兜や甲冑そして刀などが我が家にはあったようだが、家系図だけ持って逃げるのが精一杯であったようだ。なのでそれだけが今我が家に残っている。焼けてボロボロになった刀は幼い爺さんが、チャンバラしてボロボロになったんで山に捨てたと言っていた。。とっとけよ。。

    『火記念』 と言っても神官さんがきて 『かしこみかしこみもま申す~』 と祝詞を上げるわけでもない。ただ草切ってから酒を飲むだけである。みんなで自分の畑で取れた野菜を料理して持ち寄ったり、鉄砲で撃った猪の肉などがでる。そして子供らは大抵は缶蹴りなどして、わ~きゃ~言っている。だが最近は参加する人が少なくなった。という僕も参加はしていない。特に若い人々は参加したがらない。僕の親は参加したが、本音は参加するのが嫌なようである。

   というのも皆それぞれ仕事を持っている。この 『火記念』 のためにわざわざ会社を休み、そして飲みたくもない酒を飲まねばならないのはやはり苦痛である。それも昼には飲み方が始まるので酒が嫌いな人は参加したくはないのは当然だ。では日付を変えれば良いんじゃないかという事で、以前地区の会の議題に上がったようであるが、多数決では負けてしまったようだ。この日でなくてはならないという農家さんが圧倒的に多いからである。『そりゃ農家さんらはいつでも休みが取れるだろうが』 、とサラリーもらっている連中は言っている。誰も参加しないというワケにもいかない。やはりご近所付き合いもあるからだ。だがやらねばならんという事も分っている。誰かが手を入れねば道路の脇の草などはぼ~ぼ~になるのが目に見えているからである。だがさすがにサラリーもらって週6日働いている人々からするとダルい。。そりゃ若いヤツも住みたくなくなるわなこんな地区と思ってしまう。また今月は 『火記念』 であるが、来月の末にはまた何かの 『記念』 があるので迷惑な話である。。またみんな会社を休んで、同じように草刈りして、みんなでまた酒飲み。。全くやってらんない。。

   昔から日本人は地域の集まりを大事にしてきた。世界でこれほど大事にしている民族もいないんじゃないだろうかと思う。皆が農家だった頃はそれで良いと思う。それはそれで楽しかったであろう。だが今は違う。己の仕事を他人とは違う時間帯で働いている僕のようなライフスタイルの人間からすれば、参加させられる事は非常に迷惑な事でもある。。まあ草刈りぐらいは参加しても良い。なぜならさすがに草ぼ~ぼ~は美しくないからである。だが、酒飲みが 11 時から 17 時ってやっぱり飲み過ぎである。。17時以降に仕事が出来ないじゃないか。。

   多分同じ事を考えている人は多いと思う。田舎の若者が都会に勤めたがるのもこの理由が大きい気がする。これを何とか出来んのだろうか。。と一田舎で思う。。はぁ。。

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2013年8月30日金曜日

知って得する美しい寸法と高さ

   最近は個人住宅を専門に仕事をしているような感がある僕であるが、京都の設計事務所にいる頃はどちらかと言えば大型建築物などや店舗建設が多かった。大抵の大型建築物はコンペがある。数社とデザインで勝負し、勝てば天国、負ければ地獄という世界である。負ければ数ヶ月働いた銭は一切でない (指名の場合はちょっとだけでるのもある) ので、参加する限りは絶対に勝たなくてはならない。だが不思議と僕がいた設計事務所はコンペに強かった。別にセンスが特別良いとは思わないし奇抜なデザインはまず浮かばないダメ設計事務所であったが、北海道の駅舎や横浜の老人ホーム。それにニューヨークの化粧品屋さんや京都の石けん専門店など色んなコンペで勝っていた。その後宮崎に帰ったがいいが、そんな大きなお仕事など宮崎に転がっている事などはまず少ないし、自分の生活を保障する必要があるので参加するつもりもない。だが京都の設計事務所で培った建築理論などは自分が作る建物には使っていこうとは思っている。今日はレベルについて書こうと思う。レベルとは建築の世界では高さを意味する。

   以前僕の幼なじみの家がリフォームをした。当時僕は駆け出しの設計屋で、もちろん当時は京都に住んでいたので、そのの家には携わっていない。だが幼なじみからアドバイスを求められたので、キッチンの高さは慎重にしなよと計算式を教えてあげた。というのも彼女は慎重が174㎝というビッグな姉ちゃんだからだ。だがさすがは田舎の大工。現場を知らない設計屋が何言うか ! といういかにも不勉強な理由で親切に教えてあげた (普通は教えてあげない) 計算式を無視したおかげで、彼女はキッチンに立つ度に腰がイタイイタイになっている。キッチンの高さの計算式は 『身長÷2+5㎝』 と言われている。だが±1㎝は考えていた方が良いと思う。まな板があるからである。

   僕はいつも仕事で机に置いたパソコンに向かっている。机の高さはJIS規格というものである程度は決まっている。大概は70㎝である。既製品で机を買えば大抵はこの高さが多いと思う (アンティークはも少し高いはずです。) これは日本人の平均的な慎重から割り出した数字であり、もちろん全ての人々に会う高さではない。もちろんここにも建築的な計算式がある。 『身長÷4+椅子の高さ』 である。この高さが一番しっくり来る机の高さになるはずだ。

   では椅子はと言えば、 『身長÷6』 だと言われている。だが忘れてはならないのが、椅子にはクッションを置く人もいるという事だ。長い時間座る椅子を自分で作る場合は、そのクッションの厚みも考慮していた方が良いと思う。もちろんそのクッションに座れば、クッションが小さなる事も。。ちと細かいか。。

   設計の仕事を始めて始めて気づいたのだが、長時間マウスを使うと腱鞘炎が甚だしい。右手の付け根が異常な痛みを発するあれだ。なので僕は机の上にマウスを置かず、マウス専用の置き台を作って作業してる。高さは机と椅子のクッション高さの半分に少しだけ高めに設定している。これだと腱鞘炎も緩和が見込めると思う。パソコンを今使っている人は試して見ると分ると思う。これが僕の中ではベストな高さだと思う。

   家具のレベルだけではなく、建築についても書こうと思う。自慢にはならないが、高級温泉宿という施設を作った事もなければ行ったこともない僕ではあるが、写真で見て研究したことはある。その研究対象であった温泉宿の寝室は板間であり、ベットが置いてあった。だがよく見たらそのベットの場所だけ周りより20㎝ばかり高い。もちろん意図してそうしている。ベットの位置だけ高くすることにより、そのは特別な空間という演出である。昔からエライ人は一段高い床に座りたがる。だがそうする事により、その座る場所にあるモノに品が出てくるのが不思議だ。また天井が低くなるとよく寝れるもんである。これを利用した寝室はとても見ていても気持ちが良い。なので高級温泉宿なのである。

   田舎に家を建てる醍醐味は、やたらと土地が余っている事だと思う。だが家を建てる場合、とりあえず平面的な家を作って終わりというところが多いと思う。だがその土地にレベルを付けるとまったく違った表情をもつ建物が出来上がる。建築用語でファザードという言葉がある。人間で言えば顔の部分だ。あまりにものっぺりとしている建物ばかり見ているとやはりつまらない。家の外部にあえて踏面の大きな階段を作ったり、車の駐車スペースと建物のGL(地面の事)ラインのレベルを変えると家が優雅に見えて来る。もちろん銭は少し高くつくが、仮にその家を売る時などの評価は違うだろうと思う。

   理想論だよという人もいるかも知れないが、自分で家具作りをやる場合やリフォームをかける場合に使って見たら良い。というか知っていると知らんとでは違うのが高さだ。建築はレベルが命って誰かが言っていた。。誰だったかは忘れたが、確かスナックであったのは覚えている。。

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2013年8月29日木曜日

そうめん流しでひんやり

   現在、僕が住む街の温度は35℃でまだまだ暑い宮崎である。夏本番から少しは抜け出した言うが、まだまだ暑いので嫌になる。既に毎年恒例となったマウスを使う右手の汗疹(あせも)が、かゆくてかゆくてウナコーワーが欠かせない体となっている。 『暑いの~暑いの~』 と昼時に飯を食べに別棟の食堂へ向かた。いつものように昼時の HNK を付けると、そうめん流しの映像が流れていた。ええの~涼しそうやの~楽しそうやの~

   確か福井だったと思うが、その流しそうめんをやっていたのは、とある山間部の小さな小さな地区。もちろん平均年齢はお高そうである。なので少しでも地区を賑やかにしたいという事で、地元の中年会 (家々の長男で作る会のようである) の方々がこの流しそうめんを企画したようである。車があまり通らないという家と家の間の小さな道を生かしての流しそうめんには、沢山の子供らが集まっていた。だがその子供らはその地域に住んではいないようで、お盆のこの時期に行われる流しそうめんが楽しみで、都会から帰省してくるそうである。だが流しそうめんで帰りたくなるもんかね。。と思ったりしたが、この流しそうめんの長さを見て納得した。なぜならこの流しそうめんの長さはどど~んと90m超えなのである。何故そんなに長いかといえば、どうもその地域の最高齢のおばあさんの年齢と同じ長さであるという。そりゃテンション上がるし、都会からも帰省する。。この流しそうめんを始めてから帰ってくる子供らの数が増えたそうだ。やるじゃにか中年会 !

   僕が幼い頃は、流しそうめんをよく食べた。地域の祭りみたいなのがあり、みんなで滝を見に言ってそこで流しそうめんを食べる。そしてついでに宝探しもする。楽しかったかというと、全く僕は楽しくなかったが、まあそれなりに涼しい日を送る事が出来た。だが最近は全くない。第一、子供が僕の町でも少なくなったからである。大人だけで流しそうめんをするほどご近所と仲良くもないし、みんな自分の仕事でひぃひぃである。なんとも味気ない田舎となってしまったもんだ。だからと言って、今からそのようなイベントを作ったからといって、そんなイベントに僕が参加するかと言えば、絶対に参加しないが。。

   ふと思った。海外で流しそうめんは存在するんかな?以前テレビで台湾のある小さな島で行われていたそうめん流しは見た事がある。だがそれはプラチックの容器に水を入れて流すそうめんであった。そうめん流しと言うより、クルンクルンそうめんである。どうもちゃっちい。。台湾は1945年まで日本領土であったわけで、そうめん流しぐらいは残っているだろう。同じ日本領土であった韓国にはあるんだろうか。。違う理由でないような気がする。。そうめん流しに重要なのは水だ。大陸の水は大抵は濁っている。なので日本のような清流を生かしたそうめん流しは出来ないのかも知れない。ふと知り合いの中国人に聞いた。 『大陸で流しそうめんってする?』 すると 『あんなんやったら奪い合いになるじゃん。。』 と言っていた。やはり日本でないとしちゃいけない。。

   僕はそうめんを食べる時、必ず鶏の胸肉をそうめんのダシで煮る。そしてその汁を冷やしてそうめんを食べるようにしている。それが僕の中では一番だからだ。福井のそうめん流しを見て、久しぶりに流しそうめんをやってみたいなと思った。

   まあ、しないだろうが。。
   
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2013年8月28日水曜日

栗と日本人

   夕暮れ時、母親が 『ちょっと手伝って』 と言ってきた。 『何ぞな?』 とふり返ると、母親はもんぺに蚊取り線香、そして麦わら帽子に虫除け網。模範的な農協婦人部の格好で仁王立ちしている。 『栗が落ちてるから拾って』 と言ってきた。へ !? 栗ってもっと秋じゃないの ? とは思ったが、落ちているだという。僕の家の近くには栗林がある。林と言っても母親が趣味で植樹した栗林である。母親は自分の家で食べるものは自分で作りたい人で、好物の栗を植えまくった。おかげで採る手伝いをさせられる僕としては大変だが、まあ栗ご飯が食べれるからそれは良いとしよう。だが急に言われたって僕はそんな装備は持っていない。そういった農業的な趣味は持ち合わせていないからだ。だが、どうしてもと言うので、急きょ僕もお百姓のユニフォームに変身する。だがメトロセクシーな僕にはお百姓姿は似合わないはずだと思ったが、なぜかがっつり似合っていた。普通の人よりも絵になるのが不思議だ。。きっとイイ男だからだろう。。

   栗拾い道具にはサイバチが最適であるのだが、いつもモノを無くす父親がどっかでなくしたので、手元にあった鉄器を手当たり次第持って母親に合流する。母親が落ちている栗をほうきで掃き、その栗の皮を鉄器で剥いて実を取り出すのが僕のお仕事である。腰には蚊取り線香をまいているのだが、田舎のヤブ蚊は気合いが違う。僕はしゃがんで作業をするので、若干だが僕の桃尻はローライズ気味となる。そこを狙って蚊取り線香の煙をかいくぐったヤブ蚊が特攻を仕掛けてくる。気が付けば僕の桃尻はポンカン尻になっていた。。作業をしている間、昔の人はどんな感じで、この栗を採っていたんだ。。とず~と考えていた。。どう考えたってサイバチは最近だよね。。

   日本に鉄器が入ってきたのは色んな説があるが、弥生時代と言われている。当時は全てが輸入であったらしく、一般に普及したのはたたら製鉄の原始的なカタチが確立された古墳時代といえるだろう。だが栗は青森県の三内丸山遺跡から発見されている事を鑑みれば、縄文時代には既に食されていた事となる。やっぱり石の槍か何かで栗を剥いていたんだろうか。。

   調べてみたら栗は自然界では弱者にあたるらしく、山栗が自然に ” 林 ” をなす所はないそうだ。つまり人間の手が入って初めて栗が育つということらしい。手を入れるという事は栗林には肥料が欠かせないという事である。実際母親はせっせこ肥料 (主に枯れ葉) をまいている。でなければ土地が痩せて栗が枯れるようである。縄文人にとって栗は大切な食料であったらしく、実際三内丸山の周囲の森はほとんど栗林であるそうだ。また直径 1 m の栗の柱が6本も見つかったそうだ。そんなでかさの栗の木なんか見た事がない。。

   いつからかは分らないが、食べ物を与えてくれる栗の木への感謝と畏敬の気持ちが、信仰の対象となったらしく、栗の木を催事用品に用いたり、お供え物としたり、節目に食べる年中行事に取り入れるようになった。秋に取れる栗を正月におせちにわざわざ入れるのはやはり何か信仰的なものなんだろうか。。また戦国時代に出陣に際して食べる縁起物である 『かち栗』 は有名だし、保存食に使える栗は戦場へ持って行かれたようだ。さぞかし戦場で食べる栗はうまかったであろう。また現在では違うが、最近まで線路のレールの敷板には栗が使われていた。栗は柔いが腐りにくいのが特徴である。なので国鉄時代のほとんどの線路には栗の木が使われていたそうだ。これが冬の農家の良い小遣い稼ぎになったようでもある。

   夜7時過ぎまで栗拾いはかかった。普段、畑仕事などしない僕などはひぃひぃ言って疲れたが、良い汗をかいたのでちょっと気持ちが良い。 『どれくらい取れた?』 と母親に聞いた。そしたら母親がビニール袋に集めた栗を入れてハカリで量ってくれた。大体5キロだった。まあ、1時間ちょいでこれくらい取れたら十分だろう。母親が言うには僕の町でくり1キロは大体800円なんだそうだ。まあ4000円分儲かったと思えば、それはそれで楽しいモノである。それにお尻の痛みはウナコーワで吹っ飛んだしね。

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栗最高 !!
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2013年8月27日火曜日

教授らとつくるプラモデルの話

   零戦を設計したことで知られる堀越二郎をモデルとした宮崎駿監督の映画、 『風たちぬ』 がヒットしているようで、プラモデル業界が上昇気流にのっているそうだ。僕が幼い頃は男の子はみんなプラモデルを作っていた。銀座に行けば。。ではなく農協に行けば、ガム一枚と戦艦大和のちゃっちいプラモデルが1つになって100円ぐらいで売っており、よう買ってもらった。最近でもコンビニなどに行けば、それらしいモノはある。だがそれはフィギュアであったりする。それら買うのは子供なのか、それとも大人なのかは僕は知らない。

   僕の知り合いの女性はバツイチであり、姉弟二人の子持ち。お父さんがいないので可哀想という事で、優しい僕はたまにお父さんの代わりをして遊んであげている。この前のお盆の事。その少年がプラモデルを作った事がないという。 『男の子はプラモデルぐらい作れないとイイ男になれんよ』 イイ男の僕は教えてあげた。そしたら姉が 『私も欲しい~』 とダダこねたので結局二人に教えるハメとなってしまった。。調子扱いたための余計な出費である。。男の子には旧帝国陸軍の象徴である九七式中戦車チハ。そして女の子には旧同盟国のよしみで、ドイツの名車フォルクスワーゲンビートルを買ってあげた。彼らにとって初めてのプラモデルであるのだが、なんともいきなりの大物である。だが教える人がスマートなので、完成は中々のデキである。もちろんフォルクスワーゲンのボンネットを開くと、ちゃんとエンジンまで塗装がされているのがシブい。お母さんもびっくりのハイクォリティーであるようで、 『どっかでに習ったん?』 と目を丸くしてお母さんが聞いてきた。 『カリフォルニア州立大学バークレー校だよ』 とクールに教えてあげた。嘘ではないのである。

   僕はアメリカで仕事をしていた。仕事の内容はインタビューや取材が多かった。紹介人が一緒にいる時はそうでもないが、僕一人でいきなり行って相手にしてもらえるものではない。そりゃそうだ。相手かてジーンズに下駄 (和物) 履きの若い日本の兄ちゃんが紹介状を持ってきたからと取材に何と答えてよいか分らんもんである。なので僕は常に賄賂を持って歩いていた。賄賂といっても銭ではない。モノである。お菓子が好きな人にはサンフランシスコの JAPANセンター で買った日本のお菓子 (かなり評判が良い !!) 煙草が好きな人には、マイルドセブン (うまいので大抵ビビられる) アホそうな海兵隊の殿方には、股ぐらパッカぱかの日本のグラビアアイドルのポスター(雛形あきこが一番人気 ♡ ) を持参していった。そうすれば話が弾むのである。

   ある時、バークレーの大学教授を取材する事となった。パーティーで既に彼とお話をしていた僕は、彼が歴史マニアだと既に知っていたので、零戦のプラモデルを持参して持っていった。そしたら、こちらがびっくりするぐらい喜ばれた。というのも、アメリカではそれほどプラモデルが売っているわけではないからだ。それからバークレー校のその教授のオフィスで、こっそりと、『あんたらは一体だれなん?』という感じの、きっと凄いであろう他の教授らも加わりプラモデル作りをはじめた。奴らはさすがにノーベル賞をいっぱいもらっとる大学の教授らである。やたらと細かく、そして色んなアイディアを持っている。どこでパクって来たのか分らない機材を持ち寄り、他の口うるさい大学の関係者の目を盗んでプラモ作りである。結構盛り上がるし、そこで人脈もしっかり作った。そしてまた次の機会は別のプラモデルを持っていき、みんなで一緒に盛り上がる。もちろんサボりではない。お仕事はしっかりするのである。まあ、30分の取材と2時間のプラモ作りだが。。

   アメリカのほとんどの町にもおもちゃ屋さんはあるにはある。だが日本ほど、子供向けというわけではない。どちらかというと大人も欲しくなるグッツが売っている店といった感じである。なのでプラモデルなどほとんど置いていない。だがアメリカにもマニアはいるのである。バークレー校から車で1時間の場所に沢山プラモデルを売っているお店を目ざとく見つけた僕は、しょっちゅう通って賄賂をかき集めていた。その店は TAMIYA のプラモデルがほとんどだった。まだその店に通い始めた頃、アメリカ人の乳の大きい店員に 『なぜTAMIYAだらけなん?』 と聞くと、 『だってあなたの国のプラモデルが世界のトップブランドでしょ~ you know』 と言われた。そんなん聞いた事が無いと、ためしに1度だけイギリスのプラモデルを買ったことがある。それは第一次世界大戦で活躍したのかが怪しい複葉機の安っいプラモデルであった。説明書を読みながら作っていたのだが、穴がある場所に穴がない。。店で聞いてみると、 『だからTAMIYAなんだって~』 と乳が言っていた。。TAMIYAって凄いんだね。。

   ある時、 『君が仕事サボって作ったプラモがバークレー校の教授の部屋にあったよ』 と会社の上司から言われた。会社に内緒にしていた僕は、『何で知っているの?』 と聞いた。 『だってバークレー校で、日本の城を作るヤツってお前しかいないだろ』 と笑われた。

   やっぱり姫路城はまずかったか。。

   まあスクープとったから別にかまわんが。。

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さあ、お仕事がんばろう。。

2013年8月26日月曜日

オリンピックを呼ぼうじゃないか !

   どれくらいぶりであろうか、久しぶりに気温が30度を下回る宮崎である。現在は25℃。実に仕事しやすい環境温度である。ふと仕事をしながらテレビをつけたら、来月の7日にアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれる2020年度の夏季五輪開催地選びで盛り上がっていた。争うのはスペインのマドリードとトルコのイスタンブール。下馬評では横並び一直線らしい。だがとにかく悪態と賭け事が大好きなイギリスでは、日本が頭 1 つリードしていると出ていた。ちょっとだけだが嬉しい。

   イスタンブールはイスラム圏初のオリンピックであるので、僕はちょっとだけ応援していた。だが市の中心部を再開発しようとする政府に対し起こったデモに警察隊が突入。それに怒った2大労働団体が一斉ストライキを起こしたのが6月である。自然イスタンブールの評価は下がり、安心安全を売りにしていた日本に一気に注目が集まったようである。だがトルコ政府は 『五輪の理念を伝えていくのに問題はない』 という声明を出している。確かにいくらデモがあるとはいえ、よくよく考えたら2020年まであと7年もある。その時まで反政府デモがあるとは思わない。もちろんその他の悪い要因は多々あるが。。

   銭がないのがマドリードである。僕の大学の同級生はスペイン人と結婚して。。スペインのどっか。。に住んでいるんだが、とにかく仕事がないと言っている。調べてみたら失業率が26.4%(3月発表です)だという。国民の4分の1が失業してるのだから銭がないと見られてもしょうがないだろう。実際、 『市は人を雇う金も無いのに、オリンピックなどと言っている』 とマドリード市の公務員さんらがデモをやっているらしい。だが市長さんは、 『五輪開催のインフラに必要な費用は約15億ユーロ(約1860億円)。これを今後7年間で国、マドリード自治州、市で分担する。十分に可能な支出だ』 とインタビューに答えている。計算したら1年で265億円。。ちと厳しいかな。。だが最近、けしからん事にこんなに欧州最悪の失業率のスペインで、逆にオリンピックをやるべきだという声が出ているという。理由はオリンピックをやることにより経済の底上げを図り、ユーロの価値の定価を防ごうという事らしい。ヨーロッパらしいせっこい考えである。。ギリシアがあれほどボロボロになったのを忘れたんだろうか。。『五輪開いて山河あり』ではやはりイカン気がする。ちなみにスペインは治安が悪いのもマイナス要因である。

   日本の強みは、潤沢な資金と半径8キロのオリンピックである。昔ほど元気がないとはいえ、どど~んと4000億の基金を立ち上げた。そしてあまり報じられてはいなかったが、就任以来、安倍首相は IOC の投票権を持つメンバーと多くの会談を持っている。安倍首相は就任後70カ国ぐらい外遊しているようだが、その国々は大抵 IOC メンバーがいる国のようだ。やるじゃないか安部さん ! マスコミは何にも報道しないが、しっかり日本の招致委員会はやっているようでたのもしい。

   前回の東京オリンピックは涼しい10月開催だったらしいのだが、2020年のオリンピックは夏はずらせないという。どうやらヨーロッパのスポーツ界やテレビ局のご都合であるらしい。最近の東京の最高気温はタイの万国など東南アジア主要都市よりも高いことをIOCの方々は知っているのか少し疑問でもある。東京でやるのであれば、勝手にずらしたらどうだろうか。。と少し思った。

   また、毎度の事だがイスラム圏の方々はオリンピック期間はラマダンの時期と重なるようで、ぶ~ぶ~いっている。そりゃそうだろう。腹が減ってスポーツなんかやってられるかという気分だろう。。仮にイスタンブールに決まったら、やはりラマダンの最中はずらしてあげる配慮ぐらい見せるべきだと思う。

   まあ東京に決まると勝手に思っているんだが。。

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オリンピック坊主でもつくろうかな。。

2013年8月25日日曜日

ウリボーを捕まえた !!

   今日は、最近まで勤めていた工務店にボランティアで仕事に行って来た。ボランティアで仕事がしたいのではなく、銭にならない仕事だからボランティアである。。

   朝方、工務店へ向けて車を走らせていると、何かいる。。よく見たら猿がこちらを威嚇していた。その道は決して山道ではなく、結構な車の量の道である。いくら僕が住む宮崎の小さな町が田舎だからといえども、なかなか猿などと出くわすことはない。だが車で通り過ぎるのは芸がない。こちらも間寛平師匠なみの威嚇でごあいさつ。 『キー』 と歯ぐきむき出しで威嚇してあげたら逃げていった。ダテに京都に住んでいる頃、テレビで吉本新喜劇を見ていたわけではない。だが高校を卒業しアーバンライフをエンジョイしていた僕だが、やはり田舎者。猿には結構詳しい。猿はもちろんだが畑を荒らす迷惑者。だが猿かて町中にいきなり大群で現れるモノではない。最初は斥候を出して様子を見るという。今日見た猿は、1匹の成人猿であった。どうやら斥候だと思う。という事は周りの村々にとって少しは良いことをしたのだと思う。

   昼ぐらいからボランティアである。内容は僕が設計した建物の見積もり作り。実は1月以上前に1度ボランティアで見積もりと小分けを作って工務店に提出していたのだが、お客さんから 『まだ出てません』 とクレームが来たからだ。だが工務店がぼけ~としていたかと言えば、そうとも言えない。来月の頭に建材屋さんで展示会があるのだが、その時に家主に住宅機器などを決めてもらわねば、見積もりを出すに出せないからだ。要は値段が決まらないのである。まあ設計屋の僕が工務店の値段を決めるのもおかしな話ではあるが、作ってあげねば3ヶ月かけた労働の対価が0円となってしまいかねない。。もう。。

   仕事が18時に終わり、家路についた。いつもの道をいつものように車で帰っていると、朝方猿を見た場所で何かがいる。その生き物は道路の真ん中でこちらを見てぼ~としてやがる。また懲りずに出てきやがったな。。既に害獣駆除のおじさんの気持ちが分る僕はエンジンを止めた。よく見たら猿ではなくウリボーであった。『ウリボーだ ! 』 だがウリボーは逃げるモンだが。。と思っていたがおびえて逃げない。。しょうがないので、車の外に出て近づいたが、これまた逃げない。という事で、とりあえず噛まれないかとは思ったが捕まえてみた。あっさり捕まえることが出来た。

   大きくなったら美味しそう。。ではなく、こりゃカワイイと思ったので、なでなでしてあげる。だが思った。う~んどうしよう。。とりあえず持って帰ろうと車に入れたら、周りをきょろきょろして、これまたカワイイ。とりあえず車のエンジンをかけた。そしたら、急にびびりだして車の中を暴れ出した。 『動くんじゃない ! 動くとシシ鍋にするぞ !! 』 と脅したがシシ鍋になった事がないので、やはり暴れまくる。ということで大人の僕は 『森へお帰り ♡ 』 とリリースしてあげた。凄いスピードで森へ走って逃げていった。

   まさか僕の人生で、猪をキャッチする事があるとは思わんかった。。

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大きくなったら、
食べてあげると決めている。

2013年8月24日土曜日

『はだしのゲン』 は名作か?

英語では『 No shoes Gen!! 』
   僕がまだ模範的な青少年であった幼い頃、学校の図書館に行けば必ず読んでいたのが漫画である。とはいえ当時は漫画を下に見る風潮があったからか、置いていある本は大抵は 『日本の歴史』 か 『はだしのゲン』 であった。そしてこれらの本だけは劣化が甚だしかった。大抵は本の体をなしていない。年に1度ぐらいだろうか。図書館の使い方という教室があった。その教室では席順などは決まっていないので、おのずと漫画のスペースの近くに陣取り、授業が始まるといち早く漫画を確保したものだ。だが学年も上がってくると、けしからん事に模範的でないヤカラも漫画の場所を覚えてしまう。なのでカシコの僕は、前日の夕方には図書館に忍び込み、読みたい漫画はちゃんと隠しておいた。ダテに図書委員長に選ばれていたのではないのである。小学校の頃は本は2冊しか借りてはいないが。。

   島根県松江市の教育委員会が 『はだしのゲン』 を小中学校の図書館で自由に閲覧できないよう閉架とした事が問題となっている。言論の自由に引っかかると新聞屋らが批判している。なんでも松江市の教育委員会が言うには、過激な表現が目立ち子供らに誤解を招きかねないという事らしい。松江市教委が過激だと指摘したのは、旧日本軍がアジアで人の首をはねたり、女性を乱暴したりする場面であったり、だいぶ言い過ぎの感がある三光作戦についての描写であるようだ。三光作戦とは、旧日本軍がやったと中国共産党がわめいている、殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くすという中国語である。村に火をつけるという程度はやっただろうが、それ程本気で旧日本軍がやったとは思えないのだが。。だがそのニュースを見て、まだ 『はだしのゲン』 が閲覧可能だというのにも少し驚いた。

   僕が育った1980年代はまだ 『平和教育』 がハバを効かせていた時代である。学校では年に1度ぐらいは、広島か長崎の白黒の原爆映画を見させられ、低学年の子供らは大抵は泣いていた。という僕もトラウマになっている。あの原爆で焼けただれた人々を見て平和を学べと言われても、あのただれた皮膚のインパクトの強さに平和の文字は吹き飛び、ただただ後味の悪い思い出だけ頭に残っている。そして今考えたら結局何にも学んでいない気もしている。。そしてその映画の後、大抵は作文を書かされる。原稿用紙3枚に 『大変だったね。。』 を埋めるのでひぃひぃだった思い出しかない。そしてしっかり書いていないと国語の先生にビンタされる。。ビンタされる度にアンタは旧帝国陸軍かと思ったりした。。

   調べてみたら 『はだしのゲン』 は少年ジャンプに掲載されていたようである。あれが少年ジャンプに出ていたってのも凄いが、人気があったかと言えばそうでもないようだ。当時の少年ジャンプの人気漫画は  『ど根性カエル』 である。 『ど根性カエル』 と同じ時期に『はだしのゲン』が掲載されていたと言うのも不思議な話ではある。だが普通に考えて、 『ど根性カエル』 は人気があっただろうが 『はだしのゲン』 を銭を出して読もうという少年はまずいなかったであろう。実際、 『はだしのゲンは』 は少年ジャンプでは打ち切りになっている。

   少年ジャンプで連載が打ち切られると、その後は日本共産党系雑誌に移ったようだ。だがそこでもやはり打ち切られる。そして行き着いたのが日教組系雑誌であるようだ。その頃から根拠のない日本軍の蛮行や昭和天皇への呪詛がてんこ盛りになっていった。日教組さまへのリップサービスか、主人公のゲンがこんな事を言っている。

天皇は戦争を起こし日本中の街やこの広島や長崎をピカで焼け野原にし、わしのとうちゃんや数えきれない人を殺し、いまも苦しめている戦争の責任者じゃないか
天皇はおわびに米でもわしにもってきやがれバーカ
   『平和教育』という美名のもと、グロテスクな反天皇制を訴える漫画を当たり前のように図書館や教室に置いていたこと自体が気持ちが悪いと思う。被害に遭われた広島や長崎の方々の多くが、後半のぐれたゲンのような考えを持ったわけではないだろう。それを全く知識に乏しい小中学生に見せるのは、一種の洗脳に近い気が僕にはする。教師の許可を得てから閲覧させるという指示を小中学校に指示した松江市教育委員会は、当たり前の事をしただけではないかと思うんだが。。

   だがなぜ当時の人気漫画 『ハレンチ学園』 が図書館で閲覧できないのが言論弾圧ではなく、『はだしのゲン』が閉架扱いで言論弾圧なのかはよく分らない。。

   先生さんらや新聞屋は、いびつだと思わないんだろうか。。

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別に図書館に置かなくても良いと
僕は思います。。

2013年8月23日金曜日

ヨセミテ公園で地獄を見た

   ふとニュースを見ていたら、アメリカのヨセミテ公園が火事になって結構な騒ぎとなっている。なんでも既に217平方キロが焼けたそうで、9棟の建物が消失したようだ。217平方キロという事は50㎞×40㎞以上の土地が焼けているわけで、どえらいことである。火の勢いは衰えておらず、カリフォルニア知事さんが非常事態宣言をだしたようである。9棟の建物しか焼けていないということはキャンプ場だろうか。。

   僕がまだアメリカで語学学校に通っている1996年の秋のこと。黒板に 『ヨセミテ公園旅行参加者募集』 と書いてあった。 『キター !! 』 とは思ったが、なんせ銭がない。。VISAカード送ってくれと母親に頼んだは良いのだが、母親が郵便局のカードを送ってきたため明日の銭もなかったからだ。。う~んでも行きたい。。どうしよう考えた。。僕が出来るのは肉体労働とギターが弾けのみ。。という事で学校の職員室に行って良くして下さるエルビスが大好きな女校長先生に頼み込んだ。 『何でもしますよって。。』 すがる貧乏留学生に校長は、 『働く?』 と言った。するとちょうど産休に入った人がいて、スタッフが足りてないようであった。ということで、スタッフとヨセミテに向かった。

   ヨセミテ公園とはカリフォルニア中部にある国立公園で、ユネスコの世界遺産にも登録されているすてきな自然公園である。ヨセミテ・フォール (滝のこと) はとても有名で、年間なんと360万人も訪れる素敵な場所だ。大抵のアメリカの自然公園はそうなのだが、このヨセミテ公園も昔は原住民であるインディアンが住んでいた土地である。調べてみたら、やっぱり殺しまくって追い出したようだ。。

   スタッフとして行った僕は、とりあえず何するの?と他のスタッフに聞いたら、夕食後にギターでも弾いてくれ。。あと適当に写真でも撮ってくれと言われた。その他のスタッフもほとんどやること自体がないらしい。なんて適当なんだよアメリカンとは思ったが、しょうがなく他のスタッフと一緒に初日は山登りが始まった。

   国柄が違うのか、日本と違い向こうの山には手摺りなどはない。標高1,000メートルほどの山。。というか岩。。にも登ったが、まったく手摺りなどはなく、その崖っぷちを渡り歩く。 『死ぬ人いないの?』 と地元のバイトの姉さんに聞いたら 『毎年4・5人は落ちるかな』 と軽く言っていた。まあそうだろう。自己責任の国である。グランドキャニオンに手摺りを付けていないお国柄である。 『何で付けないん?』 と聞くと 『だってブサイクじゃん !! 』と即答された。まあ、この国では落ちるヤツが悪い。

   キャンプ地からは2時間ぐらい山を登っただろうか。有名なヨセミテ・フォールは全く水が流れていない。というのも秋である。ヨセミテ・フォールは雪解け水が流れてこそ滝となるわけで、全くの崖であった。。学生一同、何のために来たんだという空気が流れる。。だがアメリカ人はああそうなんだ~という程度で何とも思っていない様子だった。これが日本だったら苦情が出るだろう。。銭返せになるだろう。。

   夕暮れ時、しっかり僕とスタッフのデナーショーも終わり就寝となる。だが困った事に妙に寒い。というか秋だというのにビビるくらい寒い。。昼は心地よかったが、夜はマイナス10℃になっていた。一応バンガローはある。そして寝袋も渡された。だが気温がここまで下がるという説明は一切受けていないので皆それほど着込んでいない。。こりゃかなわんと禁止されていた煙草を隠れて吸った。煙草が暖かいと思ったのは初めてである。煙草を吹かしていると、近くで 『beerだ~ !! 』 という声が聞こえた。どうも知り合いのトルコ人らしい。おいおい、こんな寒いのにビール飲むなよ。。と思っていたら、どうやら 『beer『 でなく 『bear』 であった。。え。。熊出たの?と思ったが、これがかわいい子熊さんであった。。だが熊は熊である。熊田曜子ではないのである。。えらいこっちゃとは思ったが、どうやら子熊さんも寒いらしく、キャンプファイアーの近くでごろごろしている。だが、いまさら逃げようがない。。なので、バンガローで死んだふりして寝た。。隣には校長先生がいびきをかいていた。。

   翌日は朝、3時に目が覚めた。。寒くて死んでいるか、熊さんに夜這いをかけられるんじゃないかと思ったりしたが、なんとか無事であった。この日は朝からお馬さんに乗ってくれと言われた。人生初のお馬さんに乗るのである。テンションが上がった。何となくだが、馬に乗って平地をてくてく歩くんだろうと思っていたのだが、あらどっこい。。そんなにアメリカさんはヤワじゃない。。山の崖道を上るのである。。もちろん手摺りなどはない。馬さん暴れたら崖から落ちるのである。『まだ死にたくない』と言ってはみたが、スタッフなので行かなくてはイカンらしい。。

  2mほどの道をガンガン馬さんは登っていくのだが、こっちは手綱を握っているだけで精一杯。。実に危ない。。日本だと大抵コースは1周ぐるりと回るコースを設定するのだろうが、アメリカ人はそうではない。3時間ほど登った山で、急に前方の尻の大きなアメリカ女が、『ターン』 と言いった。。おいおい。。ここは 2m の細道じゃないか。。とは思ったが、何とかお馬さんとターンし、キャンプ地へ帰った。。気が付けば既に10時を回っていた。6時間もお馬さんに乗らされていた事になる。。お馬さんから下りたら、どうも内ももががくがくである。これほどお馬さんが疲れるモンだとは思わなかった。。また、どうしてアメリカ人はトイレ休憩というものを考えないんかと思った。。だって気温はマイナスだよ。。きっと太りすぎて尿道が麻痺しているんだろうと思った。

   後悔の連続だったヨセミテ公園は、僕の人生では最悪の旅とであった。だがその美しさはハンパないのは確かである。これほど空気が澄んでいる場所は日本にはないとは思う。

   ただ秋には行くもんじゃない。。よい子は初夏に行きましょう。


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母親が行きたいとダダこねてるので、
いつか連れて行こうとは思います。.

2013年8月22日木曜日

延岡学園はよくがんばりました

   今日は朝から婆さんを病院に連れて行った。婆さんが調子が悪いわけではなく、リュウマチなどの薬が切れたのが理由だ。今日は宮崎県代表である延岡学園の甲子園決勝が12時からあるので、病院もどこかそわそわしている様子だった。自然待合室でも見知らぬおばさんと野球の話となる。 『今年の延岡学園はエエね~』 とまあそんなたわいもない話だ。診察の時間になり、50代のお医者さんの所に婆さんを連れて行く。 『調子はどう?』 と聞かれ、 『いつも通りです』 と答えたら、 『今日は延岡学園の決勝だね~、午後は患者さんらと応援するんだ』 と言っていた。この全く流行っていない病院には大型テレビがあり、すでに病院総出でサボる。。ではなく応援する態勢となっていた。診察を終え、すこしだけ仲が良い受付嬢が 『お昼になったら来て下さいよ~』 と言われた。どうやら既に働く気などはないようだ。まあ県高校野球史上初めて決勝に行ったのだから、しょうがない。その後、薬局に寄る。薬剤師の姉さんが 『えっ!?来ないんですか?お菓子も買ってるのに。。』 と言っていた。おいおい戦闘準備は完了しているじゃないか。。だが何が楽しくて病院で野球観戦をせなならん。。僕は元気だし。。

   昼前に家に帰ると、父親から電話が入った。 『おい、ビデオ予約したか?』 昨日も書いたが、スポーツ馬鹿の父親は延岡学園とは無関係のくせに、準決勝進出というニュースを聞きテンション上がって甲子園まで応援に行っている。別に現場で見ているんだから、ビデオ撮らなくても良いだろうと思うんだが気になるらしい。これで優勝などしたら、我が家のビデオのハードデスクで永久保存版となるのは間違いない。絶対見直すことはないんだが。。

   結果は残念ではあった。4-3の逆転で群馬代表に負けて準優勝。だが延岡学園はよくやった。僕の記憶違いかも知れないが、特別目立つ選手がいたわけではない。という事は、監督さんの教えが良かったんだろうと思う。あの熱血ぶりは少しネットでも話題になっているようだ。良い監督さんなんだろうと思った。という事は、来年もよいチームを作るんだろうと思った。

   敗れたとはいえ、延岡学園の選手さんらは誰にも出来ない経験が出来た。これからの長い人生でこの経験を糧にがんばって頂きたい。一人の宮崎県民としてそう思っている。

   本当にお疲れ様でした。

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父親は明日は仕事のはずなのに泊まるという。。
さっさか、返って来んかい !!

2013年8月21日水曜日

延岡学園と甲子園、ついでに親父

うりゃ~と延学
   昨日からどうも僕の父親がそわそわしている。どうも延岡学園の準決勝を見に甲子園に行きたいらしい。僕の父親は野球馬鹿。。否。。スポーツ馬鹿で、現地で一緒に感動したいタイプだ。昨年に宮崎の鵬翔学園が高校サッカーで日本一になった時も、急に国立まで行きよった(とどけ熱量も読もう !! ) 。。なので昨日の晩は、友人らに電話で一緒に行かないか?と誘っている。だがさすがに急なことで、友人らもなかなかつかまらないようであった。僕はいつも大抵は6時半に起床し、朝飯の手伝いをする。いつものようにご飯をよそっていたら気づいた。父親が起きてこない。。 『まさか甲子園行ってないよね。。』 と母親に尋ねたら、 『朝、ガタガタしてたので行ったんじない?甲子園。。』 と言われた。おいおいここは宮崎だぞ。。煙草を買いに行く感じでちょっと出かけるトコではないぞ。。甲子園は。。と思いながら父親の部屋に行くと案の定いない。。電話したら宮崎空港であった。。おいおい今日は仕事日だろうがアンタは。。どんだけ好きなんだよ。。

   僕は自分の家で仕事をする時は大抵、NHKをつけている。見ているわけではなく、流している。緊急地震速報などやニュース速報が気になるし、国会中継などは作業用BGMにほど良いからである。だが正直甲子園の季節になると憂鬱ではある。ただでさえ暑い僕の部屋がなおさら暑く感じるからである。あのうぅ~を聞くと何故か汗がしみ出す。。

   自慢じゃないが、宮崎の高校野球は弱い。がんばっても準準決勝までしかいけたことがない。なのでたいした期待はしていなかった。当然のように先々日で負けるものだと思っていた。だがどうも今回の延岡学園は強いじゃないか。。という事で仕事そっちのけで応援を始めた。相手は山形の花巻東である。サインを盗まれないかヒヤヒヤしながら応援をした。そしたら2対0で延岡が勝った。。へっ !? 決勝。。やったじゃないか。。

うぉ~っと監督。。熱い。。
   という事で、夕暮れ時に父親から電話が入った。 『明日に決勝に進む事になったから、今日は大阪に泊まる。。』 と言ってきた。おいおい明日もあんた仕事だろ。。とは思ったが、母親は 『もう年なんだから好きなことをさせてあげなさい』 と言っていた。調子に乗った父親は、 『勝って延岡学園と一緒に宮崎に帰る !! 』 と言い出した。そしたら 『あんたは延岡学園と何の関係もないでしょ !! 』 と母親に説教されていた。。

   僕の叔父も野球馬鹿である。伯父がまだ高校の先生をやっていた頃はもちろん野球の監督をやり、定年後は少年野球の監督をやっている。そんな叔父さんに、 『なぜ宮崎の高校野球は弱いの?』 と聞いた事がある。叔父さんが言うには、 『他県と違い、高校三年生だけでチームを作るところが多いのが1つの理由だな』 と言っていた。どうもうまい2年や1年の選手を出していると保護者会が黙っていないそうだ。。まあそりゃ弱いはずだ。。延岡学園は違うようだが。。

   明日は何となくだが延岡学園が優勝する気がしている。なぜか父親が応援に行くと、応援したチームは大抵試合に勝つからだ。延岡学園にはがんばって頂きたいと思う。

   延岡学園が優勝したら、延岡にでも遊びに行こうかな。。多分パレードぐらいはやるだろうし、父親はほっといても行くだろうし。。

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にしても監督が熱い。。

ロシア娘のマリアとターニャ

そっくりですが別人です。
   まだ僕がアメリカのとある会社に勤めていた頃、マリアというロシア娘と親しくなった。マリアは8歳であった。彼女はアメリカに移民してきたらしい。移民と言うよりは実は亡命に近い。親は後でこちらに来るよと伝えていたが、実は既にこの世にいなかった。どうやら殺されたようであった。といっても彼らの親が堅気かと言えばそうではなく、がっつり大金持ちのマフィアであったらしい。。それもロシアではごっつい有名な。。

   当時はプーチンが政権をとる寸前の時期である。当時のロシアはソ連が崩壊し経済は混乱を極め、マフィアがはびこり利権争いの真っ最中。そのカオスに巻き込まれ殺されたたと聞いた。その後ロシアにいる親戚が引き取ったのは良いのだが、その親戚までが危なくなったので手に負えず、もともと知り合いであった僕の会社のお偉いさんを通してアメリカに一時保護としたらしい。のちにそのロシアの親戚まで彼女を理由にアメリカに移民しに来たが、その親戚が来るまでの間、彼女は僕の近所の会社のお偉いさん宅に住んでいた。

   とはいっても娘はやる事が無い。なので会社のお偉いさんに 『遊んであげてね』 と僕は言われた。だが僕かて忙しい。。なので当時付き合っていた日本人の女に昼間は遊んでもらい、僕が仕事から帰ると公園でバトミントンなどして遊んであげた。だがもちろんだが、彼女は英語が喋れない。なので僕が日本語をしっかり仕込んで上げた。だがあまりにも不憫だという事で、知り合いの大学院に通っているロシア女のターニャに頼み込み、彼女にロシア語の書き方を教えてもらう事にした。それからよくマリアがターニャを連れて僕の家に遊びに来るようになり、気が付いたらそのロシア女が僕の家に住みつき、 『君らは仲良しだから』 という理由でお偉いさん宅からマリアは僕の家に住み着いた。。気が付けば僕×ロシア女2人の妙な3人暮らしが始まった。。

   大学院生のターニャは訛りの強い英語を話すのだが、もちろん8歳のマリアに対してはロシア語である。僕からすれば何を言っているのかさっぱり分らん。。だが僕がマリアに話すのは日本語である。。ターニャからすれば何言ってるんだ。。って顔をしている。実に妙な空間である。ターニャはロシアに対する祖国愛が強い女性で、いつもマリアにロシア料理を教えてあげていた。これが結構うまい ! 人生で初めてロシアのボルシチを食べた時は驚いたもんである。だが文化の違いだろうか、日本人であればフライパンが暖まったかを調べるのに水を軽くまいたりするが、ターニャは 『ペッ !! 』 とフライパンに唾をかける。 『ロシアでは普通だよ』 とターニャが微笑んでいた。。ある日、 『ターニャが料理がうまければイイ男を捕まえれると教えてくれたの ♡ 』 とマリアが言っていた。。おいおいターニャは何教えてるんだ。。

こいつは嫌いだそうです。
   その後、僕は日本に帰国し京都に住んだ。そしてターニャは大学で知り合ったアメリカ人の教師と結婚し、マリアは親戚に無事引き取られた。僕が京都に住んでいた頃、マリアからメールが来た。 『日本に来ちゃった ♡ 』どうやら大阪に親戚が仕事で転勤になったんで、ついでに遊びに来たらしい。という事で、 『京都に遊びに来ていい?』 というメールであった。 僕は 『ああ、ええよ~』 とメールした。17になっていたマリアは信じられんくらいに美人になっとった。。さすがロシア女である。。若い時はべっぴんである。。年をとればタマネギ頭になるだろうが。。それも日本語がめちゃくちゃうまい。。話によると、ロシアの日本語コンクールで1位になったらしい。。それからちょくちょく僕の京都の家に遊びに来た。そしてターニャに習ったボルシチを食べさせてくれた。なつかしい味がした。だが、やはりフライパンに 『カッペ !!』 と唾を吹きかけていた。。料理はうまくても唾を吹きかけたら男は引くぞと教えてあげた。。

   そのマリアがロシアの外務省に勤め始めたとチャットメールが来た。 『おいおい、あんたはロシアが嫌いじゃないんか?』 と返信したら、 『やりたいことがあるの』 と返って来た。なので、『北方領土と、ついでに千島列島も返せ !! 』 と書いてあげたら、『いいよ♡』 とあっさり返信してきた。

   これで返還された際は、僕の手柄のはずである。

   僕も少しはお国のために役立っとのである。

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ああ、ボルシチ食べたい。。

2013年8月19日月曜日

樋隠しの魅力


   とある宮崎のハウスメーカーの展示会へ行って来た。このハウスメーカーは今宮崎で人気急上昇のメーカーである。通常ハウスメーカーなどは同業者の立ち入りを嫌がる。自分の手の内をさらす事になるからだ。だが実を言うと先月末まで僕は宮崎県は西都市の工務店の所属だったが、日向市の一級建築士事務所に所属することとなった。なので今はその過渡期 (プーではない ! ) なので、まあええやろ。。という事にしてお邪魔してきた。もちろんアンケートの職業欄には建築設計と正々堂々書いた。一瞬だが現場が凍り付いた。だが知り合いがそのメーカーで家を建てたいと言っていた(ホントです。。)なので見に来ましたと言いくるめ入れて頂いた。

   これが実に良いのである。宮崎のハウスメーカーにはないようなセンスであった。ほとんどの壁には木が貼ってあり、実にお高そうだ。だが一つ一つのセンスはとても良く、うまくコーディネートされていた。人気があるはずである。本音を言えば僕もこのように作りたい。だが予算の関係上どこかで削らねばならい場合が多いため、なかなか実際は動きが取れないのが現状である。ふと外観を覗くと屋根の軒の縁の所に、妙な板がついている。なんじゃいな。。とよく見てみたら、雨樋の外側に板が金モノで貼り付けてあった。う~ん、これは樋隠しではないか。。宮崎にしてはこだわっとるじゃないか。。

   建築設計を始めた頃は、それ程でもなかったが勉強すればするほど嫌いになるのが雨樋である。あの横一本入るラインがどうも気になる。またよく見たら水平ではなくじゃっかん勾配がついている。もちろんそれは雨水を逃がすためである。だがその微妙さがこれまた好きにはなれん。。昔のお寺やお城などには雨樋を設けず、地盤を掘って雨はダダ流しである。これが僕らにはすっきりして美しく見えてしまう。やはりこのハウスメーカーの設計士もそこが気になるんだろうと思った。よく分っているじゃないか。。

   樋を隠す方法は色々ある。例えば屋根の軒の出の一部に溝を掘る方法。ガルバニウム鋼板であればその溝を鋼板で捲く。そして縦樋を端に設けて水を排水する。これが一番シックリ見える。だがお勧めはできない。しっかり溝をガルバで捲いたとしても、仮に地震などでくるいが来た場合、小屋裏への浸水の可能性が捨てきれないからである。見た目が良くても、後のことを考えると採用はするべきではないと僕は思っている。

   だが今回のハウスメーカーさんのような樋隠しは小屋裏浸水の可能性はまずない。なぜなら隠し樋がついているだけで、その他は通常の雨樋であるからである。表面の木材は杉であり、その表面だけは塗装であった。まあ10年ぐらい経てば、色落ちが甚だしいだろうが、そこは見ないことにしてあげた。

   鼻隠しという部材がある。これは軒のでに見える垂木の表面を隠すための板だ。もちろん垂木の腐食を防止する役割もある。だがやはり化粧の意味合いもある。だがほとんどのお家の樋は出しっぱ。僕的には隠した方が美しい建物になるとは思うが、どうだろう。もちろん予算的にはばば~んと上がるんだが。。

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坪55万ぐらいかけないと
こだわれないモンです。

2013年8月18日日曜日

ヨッ !! 軍人顔 :D

   僕は今はそうではないが、アメリカに住んでいる頃メガネをかけていた。といっても当時は両目とも1.5の超優良裸眼である。なのでメガネは単なるガラスで、度?などは入っていない。何故つけたかと言えば、二十歳そこそこで部下を持ったのは良いのだが、部下は全員年上。それもがっつり僕はアジアンなので若く見られてしまう。また営業先の方々はお偉いさんばかりで、どうも若造過ぎる。実際若いのだから仕方ないが、やはり仕事上は不便である。ということで老けさせるためにメガネを利用していた。だが日本に帰って職種も建築設計という地味な図面と格闘する仕事を選んだためメガネは捨てた。邪魔くさいからでもある。だが最近目がどうもおかしい。図面ばかり見ているからでもあるが、目がかすむ。また目の周りの痙攣がとまらない。。そんな事を最近考えていた。

   ふと今日は宮崎県は高鍋町で行われた向日葵 (ひまわり) 祭り (本当の名前は知りません。。) に自転車で行き、その後なんとな~く高鍋町へと向かった。単に坂道を自転車で下りたかったからだ。高鍋町は僕の母校である名門・宮崎県立高鍋高校があり、僕の知り合いも多い。高鍋の中心部に僕の高校の先輩夫婦が勤める眼鏡屋さんがあるので寄った。メガネをすぐには必要はないのであるが、何となくメガネが欲しいからでもある。メガネがあるときっと優く見えるからでもある。

まったく似合わん。。
   汗だくの僕を先輩はありがた~く店に迎え入れて下さった。そして症状をこれこれ言うと目を測定して下さる。結果は左は1.5で右は1.2で優良なお目々をしていた。どうも図面を書いているとぼやけて見えないの ♡ と言うと、疲れ目だねとバッサリ言われた。どうも近視と乱視が若干入っている程度で、大事ないらしい。どおりで目元涼しいイイ男なわけである。

   だがパソコンなどを長時間する人は色のついたメガネをつけた方が良いとも教えて下さった。僕の仕事は長時間パソコンを使いまくる。朝8時ぐらいから始め、次の日の2時ぐらいまではパソコンは付けっぱである。もちろん途中抜けたりするが、1日12時間ぐらいパソコンの前に座って作業することはざらだ。ふと年取った時のことを考えた。今から他の仕事に就くつもりはさらさらない。なのでこの仕事を続けていれば間違いなく視力が落ちる。。こりゃ買わねばならないと思った。まあいつかではあるが。。

奥口大尉。。エライ !!
   って事で、いつか買うと決めたのでとりあえず色んなメガネを試着する。だが最近流行のシャープなメガネがとても似合わない。。なんか人相が悪いのである。ふと思い出した。僕がアメリカで仕事をしていた頃、あえて丸メガネを掛けていた。それは相手に顔を覚えてもらうためである。そのおかげでいろんなお偉いさんから、覚えめでたく良くしてくださった。という事で店の中見渡せば1つだけあるじゃないか ! ふと掛けてみたら、これが超似合う。帝国陸軍の伍長さんぐらいには見える。。義烈空挺隊の奥山大尉を思い出した。先輩はう~ん不思議だと最近はやり出したクラシックな黒縁メガネを出してきた。だが付けてみたが司馬遼太郎さんや安倍首相のパパのようでしっくりこない。以前、先輩夫婦の嫁さんにも、丸メガネはよほどでないと買わないよと言われたのだが、やはりこっちがどうもシックリ来てしまう。旦那さんも言われてみれば。。シャープなんが似合わないね。。と言っていた。。どうやら軍人顔であるらしい。今坊主だし。。

   アメリカのリンカーン大統領が言っていた。人間は40歳を超えると顔に責任を持たねばならない。確かにいつまでも無責任な顔をしていたらやはりイカン。またヒットラーもチョビ髭を付けていたのは、人に顔を覚えてもらうためであった。最近の設計の世界は一般住宅でもデザインコンペが当たり前となってきている。なのでお客さんと接した時には責任ある、また印象的な顔でないといけない。という事でメガネを掛けようかと思っている。

   銭が入ったらだよ~先輩 !

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今日は花火大会で家族は出かけている。。
でも僕は仕事です。。

2013年8月17日土曜日

キッチンと奥様

   以前からではあるが、新築の設計を頼まれる場合はキッチンは対面式を望まれる事が多い。そんな奥様が多い、と言うよりそんな奥様しか最近は見てはいない。それがどうやらブームではあるらしい事は知っている。僕が幼い頃などは対面式のキッチンはそれほどなく、キッチンはどちらかと言えば壁に設置してあるようなイメージであった。女性からすれば、後ろからの視線を感じながら料理を作っていた事になる。これが嫌なようで最近は対面型が望まれるのかも知れない。だがキッチンにはいろんなスタイルがある。クローズ型やセミオープン型、そしてオープン型。もちろん全てに固有のメリットとデメリットがある。

   オープンキッチンはキッチンとダイニングが1つの空間となったスタイルで、対面式やフルフラットキッチンと思いがちであるが、壁付きのキッチンでもオープンキッチンと呼ぶ。オープンキッチンの中でも、島のように4周全てをオープンに配置したキッチンをアイランド型と呼び、これが最近では一番人気があるようだ。メリットとしてスペースを有効利用できるので動線が短くなる事や、開放感があり広々とした好感が演出できること。また家族と同じ空間で調理が出来るわけで、孤独感が無いと事だと思う。デメリットはどうしてもキッチンがダダ見えになるとこと。周囲から丸見えなので常に人目を気にしなくてはならないので、お片付けはこまめにしなくてはならない。また煙や臭いがダイニングやリビングにどうしても行ってしまいがちでもある。また意外と知られていないが音の問題。調理や洗い物をしていると、その音のせいでテレビの音が結構聞こえにくいものではある。

   キッチンとダイニングをカウンターや腰壁、または家具で区切ったスタイルがセミオープンと呼ばれる。クローズドとオープンの良いところ持ち合わせたスタイルでもある。一般的な対面式キッチンがこのスタイルに類される事が多い気がする。かなり今様といえる。このスタイルは雑多になりがちなキッチン周りを ”ある程度” 隠すことが出来ること。もちろん料理中も家族とのコミュニケーションが計れるし、動線だって短く出来る。だがもちろん煙や臭気がリビングへと流れがちになる。また仕切りの立ち上がりが低いと、ほとんど目隠し効果がないというのにも注意が必要だ。また日本人はその仕切りの上に醤油などを置いてしまいがちである。気が付けばラーメン屋のカウンターのようになってしまうので注意が必要である。また以外かも知れないが、オープンやセミオープンの場合、キッチンの前面にテレビがあると料理に集中できない。実際我が家はセミオープンのキッチンへリフォームしたのでよくわかる。僕のマミーはいつもテレビ見ながら食器洗いをするようになり、後片付けがいつも深夜となっとてしまった。。オープンもセミオープンも設計上はとても慎重にしなければ事故ってしまう。。年月が経ちリフォームで違うカタチにしたいという奥様が結構多い気がする。展示会などに行き、結構事故っているお宅はとても多い。住む前なので気づいていないだろうが。。

   クローズドはキッチンとダイニングが分離・独立しているスタイルだ。レストランとかの厨房を考えると分りやすい。専用室であるので調理設備を充実させやすい。また煙や臭気、また音をダイニングと遮断しやすいので一番衛生的であると言えるだろう。また生活感のあるキッチン周りを人の目から隠すことができ、なおかつ調理に集中できる。料理を作るには最適だと思えるクローズドキッチンではあるが、デメリットも大きい。調理中はどうしても孤立しがちであるし、ダイニングと兼用できる空間が減るわけで、延べ床面積が大きくなりがちだという事だ。また完成した料理をダイニングに運ぶ手間も増える。だが料理が好きな方にはお勧めのプランだと言えるだろう。僕も何度かお客さんに提案してはいるが大抵は見向きもされないプランでもある。。

   料理が出来る素敵なナイスミドルな僕としては、クローズドタイプがお好みではある。だが単なるクローズドでは面白くはないとも思っている。僕が考えているのは大きなクローズドキッチンである。だが孤立するのはやはり面白くない。なので設計する上では色んな工夫を入れるようにしている。あえて大きなキッチンを作り、子供がいる家庭では勉強をそこでできるような勉強スペースを設けたり、キッチンを女の城と仮定してパソコンや本棚を入れたりもする。また大勢で料理を楽しむために、小学校の理科室にあるような大きな台を入れてその一部にアイランド型キッチンを入れたり、裏庭でパーティーも出来るようにウッドデッキなどをキッチンの横に配置したりもしている。また予算さえあれば本物のオーブンだって入れても良いし、朝食ぐらいはそこで食べれるように簡単なカウンターぐらいは設けても良い。

   色んな事を設計屋としては考える。だが提案する前にオープンカウンターでとクギを刺されてしまう。なので一応こんなんもありますよ~と教えはしているが、憧れてますんで~と一言。。設計屋が一番試されるのがキッチンであると僕は思っている。またキッチンが家の中心に持ってくるべきだと思っている。なのでやりたいのではあるが。。


   家はリビング中心で考えるよりも、キッチンやダイニング中心で作った方が良い。リビングほど曖昧な定義の部屋はないからだ。

   あくまで持論ではあるが。。

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残暑申し上げます。。

2013年8月16日金曜日

美々津の精霊流しに行って来ました。

   昨日のこと、ふと朝方NHK宮崎のニュースを見たら、宮崎県は美々津にて各家々に 『神前籠』 を出すイベントのようなものをやっていると言っていた。なんじゃいな。。とは思ったが、美々津という街は、江戸時代は高鍋藩の商業港として栄えた街で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれているとても素敵な街である。その玄関先にお盆の終わりには神前籠をつけるという。その灯籠は木と和紙で出来ており、そしてその表面にはその家の家紋と名前が書かれているそうだ。実に素晴らしい伝統じゃないか~という事で友人と行く約束をしていたのだが、友人が仕事で無理となった。のであまり行かないが家族総出で行って来た。

   NHKで言ってたんだから結構な人が来るんじゃないだろうかと覚悟はしていたが、それ程の人は来ていない。そういえば今日は既に平日だったと今更ながら思った。美々津には戦国の時代には島津家と大友家が戦った耳川の戦いの耳川があり、その川は湾港へと流れている。どこに車を止めて良いのか分らず、前の車について行ったら、どうやらみんなその耳川の脇に車を止めている。車を出ると妙な音楽が流れていた。お経ではないっぽいのだが、演歌でもない。まったく妙な音楽である。 『南無阿弥陀仏~』 と言っているので仏教かと思ったりしたが、 『〇○奉り申し上げる~』 とも聞こえたので神道もついでに。。という事かも知れない。

    美々津は小さな地区ではあるのだが、結構な人々が川沿いに座り込んで夕涼みをしている。イカの照り焼きを売っているテキ屋の臭いがエエ感じである。。ああ食いたい。。と思っていたら、夜の川に漁船が明かりもつけず、ぽっぽ言いながら走っている。あの漁船は夜目が効くんかな。。と思っていたら何やら明るいモンを流し出した。。イカ釣り漁かな。。と思ったが違った。どうやら精霊流しらしい。僕は人生で初めて精霊流しを見たのでテンション上がってしまった。。頭の中は、さだまさし様である。数えてみたら、167個ぐらいが川を漂っていた。えらい死んだんやな。。今年とボヤいたら、知らんおばちゃんが、 『こりゃ檀家の数やじ !! (これは檀家さまの数でございますの意)』 と言われた。確かに一年でこんなに死んだらエライ事である。。とりあえずその精霊へ向けて手を合わせる。川上にあるラブホのピンクのネオンが僕の煩悩をくすぐる。とても邪魔だった。。皆が手を合わせる場所にピンクのネオンを入れんでもよかろうもんが。。

   精霊流しも終わり、街の中に繰り出す。と言っても夜8時だが営業中の店などはない。開いてて欲しいな。。とちょっとだけ期待していた和風喫茶店もしっかり閉まっていた。だが明治・大正からほとんど変わっていない町並みを夜に歩くと心地よいものである。ホント日本人で良かったよと歩きながら思う。その玄関先には良い感じの灯籠があり、幽玄な空気を出している。お盆にぴったりだ。またほぼ同じ時代に作られたであろうその木造住宅の意匠も、一つ一つ違っていて実に当時の設計した人間のセンスが光っていた。次に頼まれている家は、まだはっきり決まったのではないが、古民家風の落ち着きのある和風建築物のような気がしている。 これは参考になると思ったので、近いうちにまた行こうと心に決めた。

   この美々津という街は和紙でも有名である。最近の和室の障子はプラスチックな感じのモノが多い。これがどうも僕にはピンと来てはいない。この和紙をうまく自分の建築へ使えないかとちょっとだけだが思っている。美しいモノを作るには自分で工夫しなくてはならない。これは僕の建築の恩師が言っていた。確かにその通りだなと最近つくづく感じている。

   この保存地区は海辺に面している。東南海大地震などきたら間違いなくひとたまりもないような地区である。仮に津波で街が崩壊などしたら、元の良い伝統的な雰囲気の街へ戻すのには、通常の建物ではないので結構な予算がかかるだろう。一体どうするんだろ。。外壁ももちろん木で出来ているこの小さな区域をどうやって維持管理しているのかも知りたくなった。今年の研究テーマにしようと心に決めた。まあ誰かに聞けば分るだろ。。と安易に考えている。。

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