2012年4月30日月曜日

長周期振動が来まっせ。。

  東南海地震が来るぞと言われて久しい。僕みたいに損害保険の仕事をやっていたものとしては、大変気になる。地震が来れば仕事に超影響するからだ。大きな地震が東京を襲うのは間違いないのだが、どのくらいの被害になるのだろうか。。NHKのニュースで、もし東南海南海地震が連続的に起きた場合、長周期振動が東京名古屋で20分も続くと報道されていた。仮に手抜きや法律を遵守している建物の場合は倒壊は免れるだろうが、外壁などはめちゃめちゃだろう事は予想される。外壁にタイルを使っているビルなどが多いが、これは間違いなく剥げて落下し路上の人々を襲うだろう。長周期振動の事も考えて設計はしていく必要があると思うんだが、どれくらいの設計事務所がそこまで考えて設計しているかは疑問だ。少なくとも僕がこの業界に入って、そんな事を考えている会社は超大手を除き、見た事が無い。

  最近出来上がった東京スカイツリーは、長周期振動を想定して対策を講じていると聞いた。もちろん超大手の企業だからノウハウも持っているのだろう。さすがにあの大きさ、長周期振動が起きた場合は怖いだろう。折れはせんだろうが、補修ってできるんだろうか。。足場を作るわけにはイカンだろうし。。実は長周期振動の計算は難しい。建物ごとに違う動きをするし、それに地盤にもよるからだ。それに確か義務ではないはずだ(間違えていたらごめんなさい。。)

  もちろんだが、すこぶる庶民の僕の家は高層マンションには住んでいない。木造の2階建てのおんぼろアパートだ。ふと地震が起きた場合やばいんじゃないかと思い、建物を調べてみた。一応僕はホームインスペクションがお仕事なので、診断するための機材はちゃ~んと持っているのだ。建物診断のプロなんだから、地震に弱い建物に住むわけには恥ずかしい事なんだ。よくよく考えたら建物は多分40年以上たっているので現在の法律の適応は無いに等しい。って事は金物が入っておらず、地震には弱い。しかし柱がしっかりしていれば倒壊は免れる。って事で柱を調べてみてびっくり。。シロアリに食べられてすっかすかじゃないか !! 間違いなく折れる。。建物をレーザーで調べてみたらゆがんでいるし。。ホームインスペクターが地震で死ぬのはかっこ悪い。。さっさと引っ越そう。。引っ越す前に自分で調べよう。。

  インスペクションの仕事が最近入っていない。どうやら今月はお客さんが少ないらしいのだ。これはえらいこっちゃって事で、他の仕事も考えなくてはならんかもしれん。。じゃないと引っ越せないじゃないか。。


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2012年4月29日日曜日

板塀と公共心。

  ふと自転車で旅に出たくなった。世の中はゴールデンウィーク。僕の仕事は休日に入る事が多いので、ちゃんと仕事をするべくスケジュールを開けていたのだが、これが全く入って来なかった。東京に知り合いの全くいない僕としては、遊ぶに遊べずつらい。こんな時は自転車だ!男旅だ!と言う事で外出した。

  今年の2月に東京は練馬へ引っ越して来たのだが、意外と練馬を回っていない。僕が自転車でよく行く場所は池袋方向が多い。主にホームインスペクション用の機材を買いに行く。しかし近所は意外と回っていなかった。灯台もと暗しと言うやつだ。回っていて気づいたのだが、昭和30年代の家々が残っていたりして面白い。概ね古い家はどことなく暗く、どことなく寂しいのだが、周りにある近代的な建物と比べ文化的だったりする。確かに近代は凄く効率的にできている。しかし、全てが近代だと息が詰まる。こういった古い家を改修すれば、それはそれは素敵な、そして文化を感じれる建物と変身するであろう。やはり文化的な臭いを出すためには、やはり歴史の深みが必要だと思いながら眺めてた。しかし多くの住民は壊してアパートにしてしまう。その方が手っ取り早いし現金収入がある。こうやって日本の近代は前進したし、伝統的な美しさは失われた。

  練馬区役所の南に良い感じの古い家があった。多くの人々(たぶん住民も含めて)は多分汚いと思うし、住みたくないと思うだろう。しかし僕にとっては宝物のような家だった。その家の周りに板塀が作られていた。この板でできた塀は、多くの日本の家に今現在も使われているのだが、最近は積極的に作られてはいない。また最近はウッドフェンスと言う名前も出回り、僕としてはおもしろくない。しかし昔の人は色々な板塀を作ってきたのだとつくづく感心する。よくよく考えれば道路を歩いている時に見える一番手前は塀だ。この塀をいかに美しく見せるか。これは作る職人の意地でもあっただろうし、施主さんの考えで作っていたはずだ。しかし残念ながら最近はコンクリートの塀が多い。コンクリートの上にモルタルを塗っているのだが、どことなく素敵だとは思えない。それがちと僕にとっては残念だ。

  多くの人が塀は泥棒の侵入を防ぐためにあると考えている。しかしそんなに効果はあるのだろうか。また塀は、外部からの視線を遮る考が勿論あるのも知っている。しかし塀は個人の家と公共の物である道路との境目の役割大きいのではないか。なので厳(いか)つい物をつくるのではなく、美しい物を作った方が良いと、昔の人は考えていたのではないだろうか。それが公(おおやけ)に対する表現だし、設計するときの責任じゃないかとも思った。


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2012年4月28日土曜日

ドラフターが欲しい。

ドラフター
  風邪をひき、昼間もうなされて寝ていたせいで、朝4時に起きてしまった。まあ少しずつではあるが改善している。風邪をひくと何もかもがおっくうになり、仕事も順調とは言えない。また一人暮らしなのだが料理だってちょっとサボってしまっていたので、これはイカン ! と思い朝っぱらからうどんを作っている。うなされながら建物の本を読んでいたら、非常に設計がしたくなってきた。普段建築設計は多くの人がそうなのだがCADでやる。まあプランニングだけは紙ベースでやる人が多いだろうが、若い設計屋さんはほとんどの人がCADだ。僕もずっとCADを使ってきた。速さにはある程度の自信があるし、建築CAD準1級を持っている。これが本当なのかは分からないが、宮崎県では2番目の快挙なんだそうだ。しかし最近やはり手書きの良さってのもあると思ってきている。

製図板、腰にくるタイプ
  以前、設計事務所に勤務していた頃、お客さん対応は僕のお仕事だった。僕はどうやら上司にはあまり好かれるタイプではないのだが、お客さんのウケは良い。いつもお客さんとお話しするときは1冊の無線のまっさらなノートを持ち歩き、全てのアイディアをそのノートに書いていた。もちろんそのノートにある程度の図形なども書くのだが、如何せん方眼ノートではない。自分で中心線を書き、仕上がりラインを入れ、お客さんに説明する。意外とこれが評判が良かった。一つの家を作るのに何ページも費やしデザインの元みたいにして書いていく。僕は単にそうしないと自分で図面を書けないからなのだが、お客さんには真面目に見えたのかも知れない。

ミニチュアだった。。
  しかし、デザインノートを作るのも結構なのだが、結構時間もとられるしお金も掛かる。それに仲間と共同で仕事をする場合、そのノートを貸し出すと無くすあんぽんたんだっている。また手書きの図面をスキャンして仲間にデータを送る場合ノートだと不便だ。そこで最近強烈にドラフターが欲しくなってきた。ドラフターとは、製図をするための机のセットの様なもの。僕は図面盤を机に置き、座りながらするとすぐに腰を壊してしまうので、できればドラフターが欲しい。しかしこのドラフターが値段がお高い。新品で30万する物だってある。しかも金属の塊って感じをぷんぷん出し、僕の部屋には置きたくない。美しくデザインではないと思う。色々探してはいるのだがこれだって物が中々ない。ママよ、自分で作ってやろうか ! と思ったりしたが、平行定規を支える金属で良い物がこれまた無い。う~んどうしたものか。。

  本来の設計という物は、モダニズムがどうとか様式美がどうと言うものではないと思う。自分のぼんやりした到達点に向かって、ひたすら汗をかきつつにじり寄って行く。そこに説得力を持って到着できるかが問題だ。そのために道具にもこだわるし、ノートも書く。真面目な設計とはそういうことだろうと思う。またそんな事を考えている自分はもっと好きだ。


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2012年4月27日金曜日

八瀬童子を復活させた方が良い。

八瀬童子のお仕事
  昨日、宮内庁は天皇陛下が逝去した場合の埋葬方法について、土葬から火葬に変更する方向で具体的に検討を進める事にしたとの報道があった。今上陛下と皇后陛下を一緒に埋葬する合葬も視野に入れるそうだ。ふと考えてみれば、歴代の天皇が必ず土葬だった事実はない。確か江戸初期の天皇は火葬をしたって記録があったはずだ。またこの決定は天皇皇后両陛下の意思が反映されているそうだ。国民の負担を考えた場合、小さな祠(ほこら)程度でよいとの考えを持ってらっしゃると聞く。今上陛下らしい考えだと思った。天皇家が埋葬される場所は陵(りょう)と呼ばれ、昭和天皇の場合、東京の八王子市にある。未だ行けていない。このニュースを聞き、風邪が治り次第八王子の昭和天皇陵に行こうと思った。

  以前、京都で寺巡りをしていた頃、ふと脇道をそれたところにある天皇の墓があった。いきなり見えた墓が教科書にも載っている有名な天皇だったりするとびびる。場所は天龍寺。臨済宗天龍派の本山だ。かの有名な後嵯峨天皇だったと思うが、小さな祠のようなお墓だったような記憶がある。後嵯峨天皇は鎌倉時代の天皇。この時代の天皇の墓がまだ普通に残っているのも素敵な事だと思う。

犬神人
  昔は皇族などの気位の高い方々のお墓を守る『墓守』と呼ばれる方々がいた。武士なら下級武士がその任にあたる。話はそれるが、坂本龍馬の祖父と父親は、その主君にあたる山之内家の墓守が主な仕事だった。話を元に戻す。この墓守の仕事は、『非人(ひにん)』と呼ばれる方々がやられていたと聞く。現在では口にするのもタブーとなる時代となってしまった。しかし歴史は今のような単一な物の見方では収まりきれない。非人とは平安時代にある人物が反逆罪に問われ、官位を剥奪されて『非人』の姓を天皇から与えられたのが文献上の初例とされる。当時は別に差別意識で『非人(人に非ず)』と呼んだのでなく、実際に人として扱われず神の下人のような扱いをされていた。つまり武士や公家などと対等なイメージで非人という身分があったわけだ。広義の非人として、墓守だけではなく、犬神人(神社の下級神官)や河原物や放免そして、今でも現役の八瀬童子なども含まれる。初期の非人は囚人の世話であったり、死刑囚の処刑や芸能のお仕事をやって担って来たのだが、中世期になると穢れ思想から差別されるようになったそうだ。

昭和天皇御陵
  先にも現役で八瀬童子も含まれると書いた。八瀬童子とは天皇の葬儀にあたり、棺を運ぶ仕事に従事された方々を指す。現在の京都府左京区八瀬に住み、歴代の天皇の棺を運んできた。こんな話が残っている。時は大正元年、明治天皇の崩御に伴い、その棺を陸海軍どちらの儀仗兵を使うかと紛糾した。調停案として八瀬童子の慣習を復活するとなったのだが、なんせ明治は45年も続いたわけで、当然その時の八瀬童子の当主も高齢だ。しかしみな気合いが入っていた。そりゃそうだ、彼らには誇りがある。実際に運ぶとなった時、政府高官や見守った人々は、明治天皇の棺を落としはしないか本当に心配したそうだ。また昭和天皇の葬儀の際、八瀬童子会(実際にあります)は宮内庁にやらせてくれと要請したが警備上の理由から却下され、実際は皇宮護衛官が古式の衣装を着てその任にあたった。しかし、八瀬童子会からは6名の代表者がオブザーバーとして参加したそうだ。今上陛下の葬儀の際、どんな形になるのかは分からないが、僕個人としてはできるかぎり八瀬童子を使って頂きたいと思う。それが伝統だし格式だと思うからだ。それに誇りをもってやられて来たであろうこの職務を、一公務員に任せるというのも違うような気がする。

  昭和天皇が崩御されたとき、僕は父親に言われ、ず~とテレビにかじりついていた。勿論学校にも連絡し休みとした。どんな形の葬儀やお墓になるのかは分からないが、今上陛下がお隠れになった場合、仕事をせずにテレビの前にいる気がする。その方が日本人として格好が良い気がする。

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2012年4月26日木曜日

結構凄い、家を地震から守る新たな技術

  東日本大震災を境に耐震に興味を持っていらっしゃるお客さんが増えたと聞いている。そりゃそうだろうが、どれほどの建物業者さんが耐震に関して詳しいのか僕には分からない。また耐震診断だって都道府県によってやり方や購入する機材はバラバラ。日本一律の統一基準と言う物はない。例えば宮崎の場合は使うソフトが8,000円。しかし東京では20万円ぐらいする。なので僕が所属する最大手ホームインスペクション事務所では勉強会がある。その最大手インスペクション事務所から課題提出のメールが来た。耐震診断に着いての勉強し、レポートを提出して下さいだそうだ。企業なのに宿題を出され、これが結構大変だ。風邪をひいている僕は今机の前に座り、お勉強中である。耐震の事を調べていたら3次元免震システムの実用化という記事を見付けた。

  免震と言うのは耐震と違い、地震による揺れを吸収し建物に伝えにくくすると言う事。世の中には色々な免震技術がある。基本的に大手のメーカーで取り扱っているて小さな田舎のメーカーでは一般的ではない。例えばよく使われるのがアイソレータと呼ばれる物。基礎と土台の間に変異可能な金属板とゴムを相互に重ねた商品だ。これは基本的には2次元の動きに対応するため、最近では大きな建築物によく見られる。その他にも空気圧を利用し、建物全体を基礎の一部と共に浮かせるというとんでもない物もある。地震と共に家が浮くのだ。まあ基準法的には免震とは認められていないが。。

  今回の3次元免震システムの家は実際に既に建っている。場所は東京都杉並区にある。共同住宅『知粋館』だ。開発したのは、構造計画研究所、藤田東京大学名誉教授、清水建設、カヤバシステムマシナリーの連携によるプロジェクトチームだそうだ。一見普通の住宅に見えたりするのだが、基礎の下に空気圧だろうか免震システムが入っている。メーカー発表によれば、震度7の地震の地震の横揺れに対して8分の1、縦揺れに対して3分の1の免震効果があるという。建築やっている人間なら注目せないかん建物だ。ちなみに建築学会賞を貰ったらしい。う~ん建物としては微妙な気がするが。。

  実は免震マンションは結構昔からある。しかし、コストがどうしても掛かってしまう。勿論その免震構造にする特殊な設計と言うのもあるが、その免震システムは劣化した場合、そのゴムを交換しなければならない。そしたら当然大工事。決して安買い物ではない。もっともっと安くはならないのだろうか。そして簡易にならないのであろうか。そんな事ばかり最近は考えている。

  建築基準法どうりの建物に住んでおけば、基本的には建物の崩壊と言うものはない。木造の場合はぐしゃっとならないし、コンクリートの場合はせん断破壊(阪神淡路大震災の時、駐車場ビルの1つの階が丸ごと落ちたやつです)が起こらないようにできている。この免震システムはどこまで安くできるかが次のステップだと思うんだが。まさか技術の独占はしないよね。。

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2012年4月25日水曜日

メディカルポート練馬で考えた。

  どこで頂いたのか分からないのだが、風邪をひいてしまった。一人暮らしに風邪はきつい。幼い頃などは風邪をひいても、NHKの教育テレビを見てれば直ったもんだが、大人の風邪はそんな訳にはいかない。のどがイガイガし、鼻水が出て来て大変な状況となってきた。東京の知り合いはまだ少ないので、ご飯を買ってきてくれるわけもないし、病院に連れて行ってくれるほど仲良くない。体がまだ言う事を聞くうちに食料の確保、そして当たり前だが医者に行かねばならん、って事で朝っぱらから何とか気合いを入れて医者とスーパーに行ってきた。

  行った病院は練馬メディカルポート。初めて東京のお医者様にだったのだが、これがよく考えて設計してある病院だった。田舎の病院の場合、コンクリート製の建物でず~と白いペンキ、そしてとにかく広い。しかしここは東京そんなスペースも取れるわけでもない。しかし狭いなりに設計屋がちゃんと入っていておしゃれだし、なにより明るい。この病院には内科・耳鼻咽喉科・歯科・皮膚科・整形外科・リュウマチ科が入っている。う~ん全部行きたいぐらいだ。また駐輪場の緑の芝も良い。そしてやっぱり受付の女性の笑顔も良かった。思わず受付で風邪が治ってしまいそうなくらいだ。んな訳はないか。。

ちと暗いですが。。
  このメディカルポート練馬さんで良かったと思うのが、バーチカルブラインドだ。これは海外のアパートなどに多いのだが、主にプラスチックなどでできたブラインドの事。勿論カーテンの役割を果たすのだが、このメディカルポートさんのブラインドは光を通して病院内を明るくしていた。つまり素材がプラスティックでなく和紙、または繊維室のような物を使っていたのだ。僕の勉強不足ってのもあるのだが、このブラインドのアイディアは素晴らしいと思う。大きな開口部などを設けた場合、太陽光が直接入ってきて熱くてたまらない。しかし、このブラインドは明かりをほどよく取り入れ、室内を適正な明るさとしてくれている。

  このブラインドを見ただけでも今日は良い勉強となった。自分の設計にも取り入れようと考えながら見てきたのだが、当然だがカメラを持ってなかった。できれば写真に撮っておきたいのだが、やっぱり通報されるであろうか。。

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2012年4月24日火曜日

8月に引っ越しをせなならん

  僕にとって、今年2月から始まった練馬でのシェアハウス生活が8月をもって終了する運びといきなりなった。ふと仕事とから帰って来たら部屋の前に封筒が置いてあった。開けてみるとことし8月を持ってこのアパートがなくなるらしく、他のシェアハウスに移れば割引が効きますみたいな事が書いてある。いきなりなんでびっくりしてしまった。

  シェアハウスとはまったくの赤の他人が一つの家の中に住む。僕の所の場合は某半島の方々が一つの狭~い部屋に二人で住んでいるのだが、トイレの便器を下げ似ずに小水をされる。またお風呂から裸で廊下をうろちょろされる。注意しても『じゅみませ~ん』とは言うのだが、ルールを守らない。僕の隣に住んでいらっしゃる女性は5年もこの小さなシェアハウスに住んでらっしゃるのだが、さすがに閉口して出て行くそうだ。そりゃそうだろう。。

  シェアハウスに住むメリットもある。家賃が安い。月単位の更新が可能。敷金礼金が一切いらない。また家具が最初からついて来るのはありがたい。そして何より友達が増えると言う事。最近だが知り合いが増えた。黒人のイタリア女で彼女は学生らしい。基本イタリアの商品は好きだが人は信用していない。しかし美人なので、モトイ ! 日独伊三国同盟のよしみで色々教えてあげている。

  8月には出て行かないといけないらしいが、一体どうなるんだろう僕の生活は。。

  ※いつもこのしょうがないブログを読んで頂き誠にありがとうございます。日本ブログ村の宮崎県ランキングを閉鎖し、他のカテゴリーにポイントを移行する事に決めました。まだ宮崎その他の街ランキングには所属する予定ですので、もし良ければそこから入って頂くとありがたいです。また直接『絶対景観ブログ』で検索も可能です。今後ともこのブログをよろしくお願いします。


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2012年4月23日月曜日

日本の給料取りはかわいそうだ。

  練馬駅にある西友に行き晩ご飯の材料を買う。いつも大体夕方6時頃にはスーパーで1日の献立を考えながら、個々の食材に目を通している。この時間帯というのはサラリーマンや主婦でごった返す。やはり練馬駅は背広を着た方々が目に入ってくる。やはり近くに練馬区役所があるからだろう。仕事帰りにみな参加ってらっしゃる。そんな時ふと思った。なぜ日本人は仕事の時は必ずスーツ着用なんだろう。大体スーツとは3万近くもする高級品。これが義務ってのもむごい話だ。

  若い頃僕は司馬遼太郎のエッセイが好きで、読みあさっていた。その中に確かこんな一説があった。現代の日本人(特にサラリーマン)がスーツを着るのは企業や団体が彼らにとって未だ藩組織であり、そのスーツは言わば紋付き袴なんだと。ほ~、確かにそうかも知れない。昔のお侍さまは公の場所では紋付き袴だった。家に帰れば袴は脱ぐが、お仕事は袴を着用していた。

  僕がアメリカにいた頃、スーツを着る人々はまれであった。統計ではアメリカのサラリーマンのうちスーツを着用している人々はわずか3%にすぎない。確かに仕事がらスーツ着用って企業や店舗はあるのだが、その場合はちゃんとスーツ代が出る。日本みたいに一般職だからといってスーツが義務と決めた場合、アメリカの人々は就職しないであろうし、労働団体からクレームがくるであろう。なぜならスーツ代ってアメリカでも高いからだ。日本と違いアメリカ人の仕事に対する意識は気楽だ。公務員だってサンダルで仕事している人だっている。勿論半ズボンも大勢いるし、それに対して誰もクレームを言わない。サンダルはいているからって何かサービスが悪くなるって事はないと思う。それに実は多くの日本の公務員は仕事場には革靴で来て、仕事場でサンダルに履き替えている。スーツだってその程度のものだと思うのだが。。

  よくよく考えて見ると何故我々はイギリス人の格好をせないかんのだろうか。企業もお金を出さないのならスーツ着用とがみがみ言う必要はないんじゃないだろうかとつくづく思うのだが。

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2012年4月22日日曜日

リビングの時代は続くのか?

  最近テレビがおもしろくない。僕が見るテレビは基本的には、ニュースであったりドキメンタリーであったりする。しかしふとバライティーなどをつけて見ても、面白いとはあまり思わない。ネット上でも同じ事を考えている人々がいるらしく、一億総国民の5分の1ぐらいはテレビに批判的な気がする。フジテレビの韓流ごり押し問題や芸人ばかり出てくる番組構成、そして多くの人々が興味ない人気アイドルばかりでネット上ではたたかれている。テレビと言えば娯楽の王様だった時代がある。家族の団らんなどは基本的にはテレビの前に座り、みんなで笑いながら見たりした時代だ。しかし、そんな時代は過ぎ去り、家族の団らんと言う物に変化が見られ出したのは10年前ぐらいからだろうか。もちろんインターネットが一般化したということもあろう。みなが個人として生きたいって事もあるだろう。そんな事を考えていたら、リビングも今の形とは変わって来るのではないかと考えてきている。

  以前宮崎県は都濃町に建物を作るとき、設計プランを考えた事がある。以前にも書いたが風水で駄目だったプランだ。そのプランの大きな特徴として2つの子供部屋をわずか4.5帖としその横に2帖のウォークインクローゼットを配置した。つまり子供部屋は寝るだけのスペースとした。その2つの子供部屋と勉強部屋は玄関の土間を挟んで分けている。そしてこの勉強部屋はわずか2mぐらいの幅しかなくリビングダイニングに隣接している。このプランを計画したときに考えた事は、いかに子供をリビングに引き込むかと言う事。現代の子供に6帖ぐらいの個室を与えそして勉強机やパソコンを与えると、どうしても部屋にこもってしまう。それで良いと施主が言えばそりゃそうなんだが、僕は家族とのつながりを考えると半強制的でもリビングの近くに子供はいて欲しいと考えたからだ。ちょっと奇抜であったって事もあるんだが、結局はボツとなった。説明にいければ通っていたプランだとは思うのだが、勿体ない。

  テレビをみんなで見なくなった今日、リビングに変化が出て来るのではないかとちょっと思っている。実は昔の家にはリビングって部屋はない。昔の金持ちの家には現在のようなリビングは皆無だ。応接間があり日本間があり、食事をする場所があり主人が仕事をする部屋があるが、リビングはない。リビングが出てきたのはやはり昭和からではないだろうか。少なくともテレビがない明治や大正期の家々に現在のような広いリビングってのはなかったであろう。あったとしてもそれは応接間やパーティールームだった。って事はテレビを見なくなった現代は、リビングがなくなるか小さくなっても変ではない。原点回帰が事がおきる気もする。

  リビングは家の顔という人がいる。しかしその歴史的価値は終わったんだろうか?よくよく見つめて行く必要がある。

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あ~ああ~あっ、あ・あ・あ・あ~の人


  続けて朝っぱらからなんだが。。世の中には同じ事を考える人々がいるもんだ。2年ほど前ビールの宣伝で流れていた曲が、ず~と気になっていた。しかし、如何せん曲名が分からない。どうしようもないよな~ってお思っていたのだが、ひょっとしてと思いネットで『あ~ああ~あっああ・あ・あ・あ~』と検索してみた。そしたらヤフーの質問コーナーに同じ質問をしていた方がいてやっとこさ曲が分かった。これは嬉しい。さっそく晒します。

  イギリスのバンド The Thin Things(カタカナで呼ぶ時は注意しよう ! )の曲で Great DJ と言います。僕は昔から何故かぶっ飛んだ女性と友達になる事が多い。僕自身は全くぶっ飛んでいる訳ではないのだが、向こうから見たら居心地がよいらしい。この Thin Things のボーカルみたいな人々とはすぐに友達になれる。たまに行く新宿ゴールデン街のNさんは典型的にぶっとんでいる。夜の8時から朝の2時まで飲んで2,000円と激安だったので、『昼間何かしてるの?』って聞いたら『声優しているの』って言われた。『凄いじゃん ! 、どんなのやってるるん?』って聞いたら。『基本SM嬢かな キャは♡』 どういう人生を歩んだら、SMの女王さま専門の声優なんかになれるんだろう。。 OH!

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若干だが Sims がしたくなってきた。。Push me, OH!

ふり返れば天孫降臨の里

高千穂峡です
  朝から何なんだが、世間はゴールデンウィークで騒がしい。やれゴールデンウィークはどこに行くべきとか、何を食べるべしとかテレビでやっている。しかし、僕は東京に来たばかりでだ~れしらない。知っているのは所属するS事務所の同僚の方々(めったに会いません)や自衛隊の先輩。そしてスナックで働いている女性とコンビニの受付のおじさんぐらい。なのでゴールデンウィークなんて言われても全~く関係ない。これじゃいかんとホームインスペクション入んねぇかな~と思っていたら、その期間だけクリティカルに仕事が入っていないじゃないか。。きっと期間中は泣きながら寝ているだろう。。中古住宅を買う時は呼んでね♡

  よく考えてみたらゴールデンウィークだからってはしゃいだ事はないのだが、3年前に京都から実家の宮崎に友人らが遊びに来たので、昨日のブログにも書いた高千穂に連れて行ってきた。これが、なかなか素敵な場所だ。3年前と言えば、東国原知事が大ブームだった時期なので、そりゃ~大勢の観光客でごった返していた。

いきなりびびった。。天の岩戸神社
  高千穂町と言えば、天孫降臨で有名だ。天孫降臨とは天照大神の孫にあたるニニギノミコトが降りて来たと言う事なんだそうだ。高千穂町は天の岩戸神社はあるし、高千穂渓谷という宮崎で有名なデートスポットもある。宮崎屈指の観光スポットになる。僕が行った時は、渋滞が酷かったので渓谷には行けず、天の岩戸神社へ行ってきた。入ったとたんこれが何か感じるのである。向こうからオーラみたいなのを感じて圧迫感がもの凄い。中に進むと天の岩戸の近くまでいけると聞き、案内人の方に連れて行ってもらった。案内人の方の説明よれば、天の岩戸は見る事は禁じられているそうだ。しかし天の岩戸の近くはオーラだけで凄い迫力だったのを覚えている。

ず~と、くわばらくわばらって言っていた。。
  その後天の岩戸神社近くにある天安河原と呼ばれる所に行った。どうも一緒に行った女性陣が『もの凄いパワースポットがある!』とうる覚えで言うてせがんで来たからだ。実際行って見ると、これが恐ろしい。石の上に石を重ねて置いてあるのだが、これが何万とある。それも歩くのがやっとぐらいぎっしりつめてあり、びびりの僕には非常に恐ろしい体験となった。知らんと言う事は恐ろしい事である。って言うのも僕は『いっぱい人が死んだんだな~、くわばらくわばら』と考えながら歩いていたからだ。後で知ったのだが、これは自殺などとは全く関係なく、願いを叶えるために置いてあるんだそうだ。。置いてくるべきだった。。

  高千穂町は町自体が盆地なのだが、大きな盆地ではなく彫刻刀で削り取ったような形をしていて、川を挟んで向こうの山並みが近い。ここが僕にとって設計の理想郷のような場所に思えた。一緒に行った仲間は設計仲間だったのだが、みんな同じ事を考えていたらしい。空気は綺麗だし新緑も綺麗だ。そして何より余計な物がな~にもない。こんな所で仕事をしたら、もう都会では働きたくなくなるんだろうな。。とふり返りながら車を運転してた。

  う~ん友達を作らねば。。ゴールデンウィークが暇でしょうがない。。

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2012年4月21日土曜日

『かまど』 のある生活

  僕は一人暮らしのため自炊をしている。どうも炊飯ジャーで作ったご飯より、土鍋で作ったご飯が好きなため、最近アマゾンで買った。これがいける。ご飯が起つというか、炊飯ジャーのインスタントな感じと違って『がんばってんな~』って自分で思ったりして、にんまりとしている。このご飯に納豆と醤油をかけて食べると幸せな気分になるのだ。もちろん経済的って事もあるのだが、一人暮らしは自炊にかぎる。

  僕の母方は宮崎の北の方の出身だ。母方の爺さんが彼の天孫降臨で有名な高千穂町出身。婆さんがその高千穂町の隣の日之影町出身。僕が小さい頃などは良く連れて行かれたが、本当に辺境の町で車で凄い山道を進み、いつも車酔いしていた。今は道路も拡張されて快適にはなったが、未だに凄んごい田舎だ。日之影町はきっと一日の半分以上が山の陰に入っているのでそんな名前がついたんじゃないだろうかと思えるほど、山の影にある。この日の影の婆さんの家に行くと、おじさん達が必ずシシ鍋(ボタン鍋の事)を振る舞って下さるのだが、これがおいしくておいしくてたまらない。ご飯とシシ鍋は僕の大好物となった。この日の影の家は未だに竈(かまど)でご飯を炊いている。そりゃご飯も旨いはずだ。

  昔から日本の家々には竈があった。調べてみたら石器時代辺りにはその遺跡が見られるらしい。大分昔からあったんだと思うが、そりゃそうだろう。人間食わねばならぬ。水かて沸かして使っていたはずだ。かまどの構造は単純だが奥が深い。一般的なのは土やコンクリートで形を整え、放射熱を釜に集中させている。そして煙突で排煙する。しかし、この煙突が出てきたのは実は明治以降の事。西洋的な考えが入ってきてからのようだ。たしかに時代劇で煙突がある炊事場は見た事がない。これは日本の高温多湿の気候が原因だ。煙を室内に逃し、言わば家を燻製状態にする事により、シロアリから家々を守っていたのだ。う~ん凄いじゃないか。

  我が家にもかまどはあった。僕が確か20代半ばぐらいまでは確実にあった。しかし、全くその価値を認めない親父に簡単に壊されてしまった。将来僕が自分の家を作るとすれば、かならずかまどをつくってやろうと思う。そして親戚が来たら、かまどで飯を炊きシシ鍋を作ってやると決めている。

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2012年4月20日金曜日

2年目の口蹄疫。現場から思った事。

  今日4月20日は、宮崎の人間なら誰もが知っている口蹄疫(こうていえき)の悪夢が始まった日だ。あれから2年だが、まだ2年なのか。。なんて思ってしまう。口蹄疫とは豚や牛などの偶蹄類(ぐうているい)と呼ばれる蹄が2つに分かれている動物に起きる病気で、この病気にかると肉質が極端に堅くなり、経済動物である牛や豚はを扱う農家は一気に廃業に追い込まれてしまう。また一番やっかいなのはその感染力で、空気感染するスピードはとてつもなく強い。対策としての抗生物質はあるのだが、これを打つと感染しているのかどうか分からなくなってしまう。なぜなら感染から発症まで2週間の潜伏期間があるからだ。なので現実的な対応としては、感染していても感染していなくてもある一定距離の牛や豚、ペットの山羊なども含め、全部殺さなくてはならない。僕はこの口蹄疫が発生した時は、とある宮崎の動物用医薬品の会社で営業をしていた。そして僕の営業先が一番口蹄疫で問題となった川南町を含む児湯郡地区。なので口蹄疫問題は深~くかかわった。そして2年前の明日、僕はこの会社を辞めた。

  最初は動物用医薬品会社の本店から『今すぐ来てくれ』という電話が、僕の営業所に7時40分頃あった事に始まる。本店に出向いたら会長と専務が二人いて、『口蹄疫だ、8時になったら宮崎県から発表となる。』 最初は頭が呆然となった。僕ら動物用医薬品の会社にいた人間は、その半年前韓国で口蹄疫が流行し、凄い騒ぎになっているってのをよく知っていた。口蹄疫は空気感染力が凄まじく、イギリス・フランスのドーバー海峡だって渡ってしまう。なので日本にいつ口蹄疫が来てもおかしくないと言われていたし、その対策を考えていた矢先の事だった。事務所に帰って東京に出張している社長へ電話。『は~?口蹄疫って何ね』 おいおい口蹄疫を電話で説明せんといかんのか。。この社長は全く仕事をしないで有名で、みんなに嫌われていた。しかしそんな事を言っていてもしょうがない。薬品の受注や発注が凄まじい一日となった。明くる日のんきに社長は東京出張から帰り、これまたのんきにお土産を会長へ持って行き、会長に口蹄疫対策について聞かれ『なんですか?』みたいな事を言って、会長に厳しくどやされていた。。営業所に帰ってきた社長に『あんた口蹄疫を持って帰ってきておらんか?』と痛い質問をされた。おいおい、あんたが行けっていったんだろう。。『口蹄疫が出た川南なんかで仕事をとって来やがって、まったく困ったやつだ』って言われて切れた。『こんな会社、辞めたるわ!!』 って事で辞めた。会長には世話になったし、同僚とは良い仲だったんだけれども、言ってはいけない言葉があるのだ。まあ残っていたとしても営業先が全くなくなるのは目に見えていたが。。

  口蹄疫問題を語る場合、ネット上ではよく言われている話がある。それは最初の口蹄疫発生と報道された水牛農家に韓国の留学生が来ていて、その留学生が口蹄疫を持ち込んだと言われるもの。またその留学生を受け入れるのに奔走したのが、民主党の道休誠一郎議員というもの。実はこれは完全なデマ。知り合いがその水牛農家に勤めていたのでよく知っているのだが、韓国人留学生などいない。道休議員にとってはよい迷惑だろう。まったく関係ないどころか対策に一生懸命だっただろうに。。一番最初に出たと言われている水牛農家だが、実はこれはサンプル上での事。つまり宮崎県に正直に一番最初に報告して検査立ち入りし、陽性となったので、水牛農家が一例目となっている。しかしその隣にある安愚楽(あぐら)牧場は既にその時は口蹄疫が治っていたそうだ。つまり安愚楽牧場が本当の一例目。上司の命令で口蹄疫を隠蔽したそうだ。おかげでたくさんの動物が殺される事になった。

  動物用医薬品の会社を辞めて地元川南に帰って驚いた。口蹄疫とはどこ吹く風。まったく対応がなってない。川南町とは典型的な地方の都市で、もちろんスーパーは農協だったりするのだが、5月の10日ぐらいになってやっと消毒マットが置かれた。畜産農家は口蹄疫って言ってもよく分からず、役場に長靴で来て『課長さん、対策はどうすれば良いとね~』なんてのんきに聞いていた。おいおいあんたが口蹄疫を振り舞とるんじゃないか!! 国の方針でニュースには1ヶ月ぐら後の5月半ばぐらいまで報道規制されていた。そして困った事に、地元の人間だってどこの農場まで口蹄疫が来ているか分からない。個人情報保護らしい。。また殺処分した牛や豚を埋める場所確保が大変で、これまたもめた。そりゃそうだろう。畜産農家は畜産はやっているけども、畑はそんなに持っていない。想定外の被害とは言え、国も県も町も全てが後手に回ってしまったわけだ。

  結果宮崎では29万頭の牛豚やその他ペットが殺処分された。経済的な損失は牛や豚などだけで1000億円と言われるが、その他の産業にも大きい爪痕を残した。例えばイベントなどは自粛の勧告が国と県から出たため、業者は半年間仕事が全くなかった。また外を歩くだけで非国民に近い感覚を住民自信が持ったので、みな飲みに行かない。よって飲食業はもの凄い経営不振に陥った。また各畜産農家は口蹄疫を防ぐため石灰を入口に蒔くのだが、これが飛散し野菜の薬品濃度が高くなったため買ってもらえない。ほとんどの宮崎の商品が敬遠されるといった具合になったわけだ。

  東日本大震災という未曾有の災害があり口蹄疫は忘れ去られた。しかし、こんな現実が2年前の今日に起きた。改めて死んでいった動物に哀悼の意を表したい。

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2012年4月19日木曜日

アラニスさんのアイロニック


  留学していた頃、最初の住み家はドミトリーだった。言わば大学の寮だ。もちろん広さは日本と比べものでなくとんでもない広さだったが、またこの寮の食堂が凄かった。食べ物は何でも選べて自由。飲み物も飲み放題だし果物だって何でもある。日本で言えば体育館のような広さの食堂だった。僕がアメリカに行った96年の春はアラニスモリセットさんのアイロニックがはやっていたらしく、よくその食堂で流れていた。Major7が効いてます。

  今日は仕事で疲れましたんで、アラニスさんでよろしく~。。


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2012年4月18日水曜日

京都建築専門学校のおかげです。。

町屋校舎です
  僕は京都建築専門学校という小さな専門学校を卒業した。夜間部だった。昼間は働き夜に学校に行く。勿論、超苦学生。しかし夜間学校の生徒は年齢的にも30ぐらいが多く、また勉強意欲もあり、それはそれは役に立った。宿題をやった、勉強したというよりも建築についてじっくり考る良い期間となったのは僕にとって貴重な経験だ。この建築についてじっくり考える期間と言う物は建物を建てる仕事に関わる物にとって非常に重要だと思う。例えばハウスメーカーの営業さんや不動産屋さんから設計業務に入った人々と、建築学を勉強してきた人々とは視点が全く違ってくる。以前勤めていた京都の設計事務所の社長さんは、不動産の営業をされた後に設計事務所を立ち上げた。しかし建てている物は全国一緒の建物。同じ建物を京都で作り、大阪で作り、神戸で作っていた。僕の中では彼のデザイン力は皆無に等しく、そして作っている物は犯罪的であったと今でも思う。しかし彼は儲かっていた。開発業者に女を抱かせ一緒になって太っていく典型的な悪だ。しかし仕事はず~とあった。しかし倫理的に同じ建物ばかり作って良いとは思わない。しかしこんな事を考える事が出来たのも専門学校で純粋に設計を勉強したからかも知れない。でなかったら僕も同じ家を全国一律で作っていただろうと思う。

  建築の学校の良いところは、建物の建て方を学ぶ事と同時に、実際に製図を自分でデザインする事にある。夜間だったせいでもあるのだが、最初に一つの木造建築を模写してあとはいきなりデザイン。今考えると恥ずかしいようなデザインだったりするのだが、とりあえず書かされる。よくよく考えると卒業までに多分30枚ぐらいは書いたのではないだろうか。木造2階建てのプランやコンクリートの図書館。リフォームプランや公園のデザインなど、結構幅広い。そして最後には卒業作品と言う物を作らされる。昼間の生徒さんは卒業前の半年前ぐらいから卒業設計について考え、そして作り上げていくのだが、夜間学生はわずか1月半しかなかった。最低提出図面数は8枚だったと思う。この卒業作品をクリアーできないと卒業は認めてもらえず、僕のクラスメートだった人間も実際に留年した。僕は京都会館と隣の公園を改修して音楽を専門とする改修案的な物を出した。僕だけではないのだが、プランの段階から京都大学出身の先生方にぶ~ぶ~言われ、へこみながら作った。『おい、ここのデザインは逃げてるじゃないか!』とか激しい口調で罵倒されたりしたものだ。当時はなんだよって思ってはいたが、今となってはちゃんと糧になっている。ありがたい事だ。

  ある本でレンゾ・ピアノという建築家が言っていた。一日のうち30分でもゆっくりとした時間をもち自分が何を作りたいのかじっくり考えるようにしていると。デザインとはふとした瞬間にひらめく。このひらめきを求めるために専門学校があったんだと僕は思っている。

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2012年4月17日火曜日

伝統を100万で買うべきなのか。。

  最近、古民家鑑定士という資格に興味を持っている。以前宮崎であるハウスメーカーに就職しようと面接に行った時に、社長さんから紹介された資格だ。古民家鑑定とはどういった仕事だろうか。調べてみたら、古民家の調査・査定・提案が主な仕事だそうだ。築50年以上の伝統工法の建物や在来工法の古民家を鑑定し、耐久性や文化的な住環境の保存について、総合的な判断基準に基づいた鑑定書を発行するらしい。また他にも古民家をいかに流通させるかなど色々ある。どことなく僕がやっているホームインスペクションと似ている気がせんでも無いが、どことなく興味がある。現在流通している建物の99パーセントは伝統的な工法で作られている建物ではない。流通しているのは金物によって軸組(柱や梁など)を緊結する在来工法。それ以外に欧米などでは主流である2×4(ツーバイフォー)だ。伝統工法にうっとりしてしまう僕などは、こんな資格を見たとたん飛びつきたくなるし、作って住みたくなる。ただ仕事はあるんだろうか。。

  伝統工法の建物は作った事が未だ無い。どうやって作るか知っている設計屋と言うのも少ないと思う。本当に地震に強いんだろうか。台風に強いんだろうか。よく分からない。しかし現に何百年たっている伝統工法の家だって存在する。

  伝統工法と在来工法はどこが違うのか?見たくれから言えば、基礎の違いが一番分かりやすいのではないだろうか。在来の場合コンクリートの基礎の上に土台を水平に置き、アンカーボルトで基礎と土台を緊結する。しかし伝統工法は基礎はなくその代わり石場建てとなる。つまり石の上に柱がくるって事だ。なので在来のような土台は必要としない。また在来は地震の力は軸組同士を繋ぐ金物で耐える。つまりボルトが命なのだが、伝統工法の場合は金物ではなく、複雑な仕口で繋いでいるため地震力を受け止めずに逃がす。つまり剛と柔の違いがあるのだ。

  しかし、現実的に今の法律では伝統工法は作りにくいし、流通しにくい。なぜなら伝統工法と在来工法のでは価格が100万単位で違ってくるからだ。これは姉歯事件以降建築確認が厳しくなった事にもよるらしい。国も色々考えているらしいのだが、どうにもこうにも前進しているようには思えない。しかし伝統的な工法を普通に作るのがむしろお金が掛かるってのも不思議な話だ。。

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2012年4月16日月曜日

国会議事堂前で職務質問を受けてもうた。。

  今日は僕がホームインスペクターとして勤める『S事務所』まで自転車で行ってきた。本当はいっちゃん初めに頂かなくてはならない資料を、僕が敬愛する職員Kさまが僕に渡すのをど忘れていたからだ。『よかったら取りに来て下さい♡』と軽く言われたので、忠誠心を見せるため、また、こびを売るため根性を見せてやる!と思い自転車にまたがった。距離にして16㎞の道のりをひぃひぃ言いながらペダルをこぎ、やっとこさ事務所に着いたのだが、会談はあっさり5分もせんと終わってもうた。どうやら忙しかったようだ。こびを売る暇もなくさっさと退散させられてしまった。。ちっ!!

皇居だ!
  失意の中、自宅がある練馬まで自転車を走らせていると、とんでもない空間が見えてきた。思わず言葉がでた。『皇居前広場だ!!』 実はここに来るのは2度目。一度目は小学校6年生の時に父親と旅行で来た。だが、ケンタッキーフライドチキンの事で頭がいっぱいなのであろう、今まで皇居前広場の来たことがあるって事は、僕の脳から消去されてた(宮崎にケンタッキーがあるのは僕のおかげも読んでね♡)来た事はない方もいると思うのだが、ここがやたらと広い! どのくらい広いか調べてみたら115ヘクタールもあるそうだ。イカン、なおさら分からん、っと、もっと調べてみたら1ヘクタールとは10,000㎡の事。って事は、計算機計算機。。1,150m×1,000m。。さすが皇室関連施設(たぶん。。)だ!できればきゃっきゃ言って一人遊びをしたいのだが、自転車で汗だくの体。皇室に不敬があってはならんと思い、そそくさと皇居前広場を後にした。

この前で職務質問は恥ずかしい。。
  自転車で走りながら考えた。世界中、色々な都市に広場はある。例えば古代ギリシャ時代にも広場はあったし、多分それ以前の古代文明の都市にも、同じような機能を持った場所だってあっただろう。では広場とは何か。重要な政治的な儀式などに使われる他、商業活動や情報発信の中心地として存在してきた。なので常に厳重に警備されている皇居前広場は本来の意味での広場とは言えないと言っている人だっている。そりゃ厳重に警備しないといけないぐらい皇居前広場では過去に事件が起きている。とても生々しい場所なのである。血のメーデー事件などが有名だが、小さいのまで取り上げれば切りがない。しかしどことなく品があって素敵だった。さすが日本である!

実際の人物とは違います♡
  その後、自転車で練馬に帰る途中、ふと国会議事堂が見えてきた。大勢のお巡りさんがいる中、『国会議事堂だよ、おっ母さん! 』っと、初めて見る国会議事堂前でテンション上がっていたら、婦警さんににらまれていた。そんなに怪しい人間に見えるかね、俺が。。カメラを持ってくれば良かったと後悔しながら、携帯で写真を撮ろうとして気が付いた。イカン、電池があと5%じゃないか! GPS機能を使っていたせいで電池が減っていたのだ。アカン! 練馬ってどうやって帰るんだ。。ママよ、電池が切れる前に頭の中に地図をインプットして、後は方位を確認さえすれば何とか練馬に帰れるはずだ! って思いながら携帯をいじっていたら、婦警さんが声をかけてきた。『何をされているんですか?』 と簡単な職務質問されてしまった。。おいおい姉ちゃんって思いながら、国会議事堂前でこれまでの経緯をとうとうと宮崎弁で説明し、若干盛り上がりながら納得してもらい、最後は笑顔で手を振りながらお別れしようとした矢先、電池切れになってしまった。。『あらっ♡』っと婦警さん。。しょうがないから道を訪ねていたら、他の厳(いか)つい怖そうなお巡りさん(50代男性)が寄ってきた。『どうかしたのか?』 どうやら婦警さんをナンパしているように見えたらしい。こんな所で婦警さんを口説くわけないじゃないか。。

  頼んでもいない年配の怖そうなお巡りさんに道をど太い声で詳し~く教えてもらい、彼が来てから笑顔が一切なくなった婦警さんと泣きながらお別れをして、何とか練馬の自宅に帰ってこれた。道を間違えながら返ってきたせいで往復2時間37分もかかった。距離は37.08㎞。378キロカロリーの消費だ。彼女も素敵な迷子としゃべれて幸せだったはずだ。そんな事を考えながらこのブログを書いている。まあ、そんな一日だった。

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嗚呼、泣けてきた。。

2012年4月15日日曜日

路地を生かす

  僕はあまりデパートには行かない。デパートが格段嫌いって訳ではないのだが、あまり欲しい物が売っていないし、ちと僕には高い。それにデパートの一階に化粧品売り場があるが、あの臭いをかいだだけで咳き込んでしまいそうになるので足が遠く。日本にデパートができたのは、1914年に三越が作った。『スエズ運河以東で最大の建築物』だったそうだ。エレベーターが珍しかった時代、それはそれは注目されたであろうと思う。しかしこれから地方の発展を考えてみると、大きなデパートが地方の都市に入ってくる事が本当に幸せなんだろうか。

  以前商工会関連の仕事をしていた時、商工会会長さんに教えて頂いた事がある。ドイツのある町では地方に大きなショッピングモールが入ってくる時に町を挙げての議論となった。しかし法律的に拒むのは難しい。そこで町の議会がとった行動が、町の面積の90パーセント以上の敷地をショッピングモールにするならば認めると言う物。つまり現在住んでいる住人を多くを説得し、お金を払った上でショッピングモールに来てもらう。もちろん実質不可能なのでモールを企画した会社はあきらめたそうだ。ほ~中々やるね、ドイツ人!

  アメリカの場合は地域ごとの主張が大きい。僕が住んでいた町はDavisという小さな大学の町。3万人ぐらいの町にはお店は30軒ぐらいしかなかった。勿論ショッピングモールは出店したかっただろうが、市議会で禁止されていたためモールはなかった。そのせいか小さな店でもやって行けるので、街並みも美しく、シャッター通りはDAVISにはなかった。しかし、隣町のSacramento(隣町って言っても30㎞離れてます)には飛行場のようなモールがあった。それはそれは大きいモールだが、街の小さな店はしょっちゅうつぶれていたりして、シャッター通り化しており、治安は非常にやばかったのを覚えている。僕はDAVISの大型ショッピングモール禁止という判断は英断だと思う。

  僕は以前京都に住んでいたのだが、京都という町は小さな路地がある。その路地に入ると良い感じを出している店が集まっていたりする。例えば先斗町(ぽんとちょう)。鴨川のすぐ脇にあるこの小さな通りは飲食店街として有名だが、その道は1間もないかもしれない。1間とは1820㎜と言う事。1間ないと言う事は、人が通れるやっとの通路だと言う事だ。しかしこれがまた品があって良い。この界隈のお店は値段が高い。しかしこれでやって行けている。これからの街の作り方とはこうある方が良いのだと最近思えてきている。小さな路地に小さなお店で十分結構だという気がする。考えて見ると僕育ったような小さな街には、店はあるが欲しい物が何もない。あるのは実用的な物ばかりだ。それでは街は賑わうことはないのではないだろうか。以前にも書いたが司馬遼太郎の言葉、『街を定義するとすれば、若いお嬢さんがおしゃれをして行きたくなる場所』って事から考えても、小さな路地を生かすってのは面白いと思うのだ。その方がお客さんも楽しめると思う。少なくとも現在よりはだが。勿論緻密な計算の元街は作らないといけないだろうが、大きなショッピングモールを作るってのは短絡的すぎないだろうか。

  路地を活かす街づくりをすれば、デパートを入れる必要はないし、ショッピングモールを作る必要もない。なぜなら街そのものがショッピングモールだからだと思う。そんな事を考えている。

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