2012年4月10日火曜日

やっぱり『あ~と』が嫌いだ。

阿久根市のあ~と
  う~ん寝れない。結局寝れなかった。物事を考え出すとず~と考えてしまう。物事の真理みたいなものを追求してしまうとず~と考えだし、たまに仕事に支障をきたす。もっと単純に物事を割り切れれば良いのだが、どうもそんな風に僕のDNAはなっていないらしい。こんなタイプは自殺とかしてしまう人が多いと聞いた。確かに何度か死にたいなんて思った事はある。しかしちょっとした事でテンションが上がる僕は、すぐにリセットできたりする。ある本で自殺する人は決して死にたいから自殺するのでは無く、生きられないと思うから自殺すると書いてあった。確かにそうだ。へこんでいる時は生きられないと思う。しかしそれを言葉に出す時には『死にたい』なんて言葉になっているのだと思う。考えてみれば違う世界に飛び込めばうまく行く可能性だってあるので死ぬのはもったいない。僕は変わり者だから、日本では生きにくい。ついつい自分のじ~くり考えている事を口にし注意され困ってしまう。どうやら他の方と意見が違うらしいのだが、ついつい意見してしまう。しかし、アメリカでは違っていた。以前にも書いたが彼の国はどんな意見を持とうが、どんな意見を発しようが自由だし尊重してくれる。どんな意見を発しようが、日本のように人格を否定する言葉は投げかけられない。日本で意見を持って発言するとは、あくまで周りの賛同を受けるという前提が無ければ成り立たないような気がする。でないと村八分をくらう。

  僕は小学生が作るオブジェみたいな物を町の中に作るのは反対だ。例えば宮崎県は木城町にあるオブジェ。小学校内にあるなら良いのだが、公道の脇にある。そしてこのオブジェは子供がダンプにひかれている。このオブジェは大きなタイヤの横に、元は白かったであろう子供の銅像が、ダンプカーみたいな大型車にひかれる瞬間のような物を模写している。その白かった子供が汚れて黒くなっている。僕らが幼い頃、よく原爆の映画を強制的に見せられた。焦げて真っ黒になった子供を見ているようで小学生の僕には耐えられず、それが未だにトラウマになっている。この銅像がそれに見えてならない。これは小学生が作ったのかどうかは知らないが、どうもオドロオドロしい。交通安全のために置いているのだと思うのだが、変だと思えてならない。って事で町の会合の後の飲み会の席でそんな事を言った。そしたら『みんな一生懸命作ったんだから、そんな事を言うなよ!』とか『お前勝手にやれ!』なんて年配の方々に言われた。僕の中では『えっ、意見出しただけじゃん?』って思ったりしたんだが、結局は賛同を得られるものではない意見だったようだ。どうやらみんなが一生懸命作ったら、汚いとか変だとかは言ったらいけないらし、思ってもいけないらしい。そんなふうにこの国はできている。

堤防にあ~とは好きではない
  以前テレビのニュースで鹿児島県阿久根市のアート事業についてやっていた。これはリコールとなった前市長の竹原氏の専権事項で議会を通さず始まった事業なんだそうだが、これはもちろん著作権の問題もあるのだが、その他にも色々と考えさせられてしまう。これが仮に小学生が書いていたらどうなんだろうか。景観の観点から文句を言えるのだろうか?あくまで僕の意見なんだが、近所にこのような『あ~と』と名前のつく物ができれば迷惑だ。それに一度書かれたら中々消すってのは難しい。小学生が書いたんだからって言われるのは目に見えているし、心のない人間って言われる気がしてならない。仮にこれがアメリカだったら必ず裁判になると思う。日本と違い彼の国は土地ではなくストリートとしての美しさを大事にする。つまり点ではなく面を大事にするって事だ。実際にその家の地価だって下がるだろうし、自分の住むストリートを汚す物には意見を言うのは当然の権利だからだ。その裁判をする相手誰だろうが関係ない。よくよく考えて見ると僕の近くの町の港のコンクリートの堤防に小学生のアートがある。僕は釣りによく行っていたのだがどうも気になってしょうが無かった。本当に港の人はこれで良いと思っていたりするのだろうか。決して美しい芸術だとは思わないのだが。。

  まだまだ景観にうるさい人は日本には少ない。なので少数派なんだが、少しでも賛同してくれる方が増えてくれればありがたいと思いながらこのブログを毎日更新している。もちろん違う意見をもったって方もいて良いと思う。相手の意見を尊重しない大人にはなりたくない。しかし景観の事を語る場合こんな場面に良く出くわす。その度に『嗚呼、生きにくい』と思ってしまう。。

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