2012年4月29日日曜日

板塀と公共心。

  ふと自転車で旅に出たくなった。世の中はゴールデンウィーク。僕の仕事は休日に入る事が多いので、ちゃんと仕事をするべくスケジュールを開けていたのだが、これが全く入って来なかった。東京に知り合いの全くいない僕としては、遊ぶに遊べずつらい。こんな時は自転車だ!男旅だ!と言う事で外出した。

  今年の2月に東京は練馬へ引っ越して来たのだが、意外と練馬を回っていない。僕が自転車でよく行く場所は池袋方向が多い。主にホームインスペクション用の機材を買いに行く。しかし近所は意外と回っていなかった。灯台もと暗しと言うやつだ。回っていて気づいたのだが、昭和30年代の家々が残っていたりして面白い。概ね古い家はどことなく暗く、どことなく寂しいのだが、周りにある近代的な建物と比べ文化的だったりする。確かに近代は凄く効率的にできている。しかし、全てが近代だと息が詰まる。こういった古い家を改修すれば、それはそれは素敵な、そして文化を感じれる建物と変身するであろう。やはり文化的な臭いを出すためには、やはり歴史の深みが必要だと思いながら眺めてた。しかし多くの住民は壊してアパートにしてしまう。その方が手っ取り早いし現金収入がある。こうやって日本の近代は前進したし、伝統的な美しさは失われた。

  練馬区役所の南に良い感じの古い家があった。多くの人々(たぶん住民も含めて)は多分汚いと思うし、住みたくないと思うだろう。しかし僕にとっては宝物のような家だった。その家の周りに板塀が作られていた。この板でできた塀は、多くの日本の家に今現在も使われているのだが、最近は積極的に作られてはいない。また最近はウッドフェンスと言う名前も出回り、僕としてはおもしろくない。しかし昔の人は色々な板塀を作ってきたのだとつくづく感心する。よくよく考えれば道路を歩いている時に見える一番手前は塀だ。この塀をいかに美しく見せるか。これは作る職人の意地でもあっただろうし、施主さんの考えで作っていたはずだ。しかし残念ながら最近はコンクリートの塀が多い。コンクリートの上にモルタルを塗っているのだが、どことなく素敵だとは思えない。それがちと僕にとっては残念だ。

  多くの人が塀は泥棒の侵入を防ぐためにあると考えている。しかしそんなに効果はあるのだろうか。また塀は、外部からの視線を遮る考が勿論あるのも知っている。しかし塀は個人の家と公共の物である道路との境目の役割大きいのではないか。なので厳(いか)つい物をつくるのではなく、美しい物を作った方が良いと、昔の人は考えていたのではないだろうか。それが公(おおやけ)に対する表現だし、設計するときの責任じゃないかとも思った。


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