2013年3月28日木曜日

堀を埋めた瞬間から、後悔は始まる

   以前にも書いたがまだ京都に住んでいる頃、徒歩で琵琶湖を一周するという無謀な一人旅を企画し実行した事がある。すがる女には 『俺のことは忘れてくれ ! 』 と言い、無謀だという友人らには 『京都市役所前でサライでも歌って待っとれ ! 』 と言い放ち京都を後にした。な~に、軍にいる頃は演習で30㎏の装備で20マイルを歩けたので大丈夫さ~と、11㎏の荷物を背負って京都を出たため、結局は滋賀県は安土町まで歩いてヘタリ込み、電車でチャンと座って京都へ帰って来た。友人らには 『この根性なし ! 』 と馬鹿にされ女には本当に忘れられたが、そんな無謀な小旅行でもとても良い勉強となった。さすがは歴史の通り道と呼ばれる滋賀県だけあって興味深い建物を調べる事ができたし、歩きすぎると太ももが痛くなる事も学習した。そんな滋賀県南部の琵琶湖周辺をひいひい言いながら、ぐるりと回っている際に興味を持った町がある。近江八幡市だ。

   近江八幡市は、豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、商業都市として発展した。いわゆる近江商人の発祥の地だ。この町は近江八幡市八幡伝統的建造物保存地区という名称で国の重要伝統的建築保存地区として選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われているようだ。また明治だったか、ウィリアム・ヴォーリズという建築家がこの近江八幡市に住み、そして多くの近代建築作品を残していて、その建物はとても素敵だ。また秀次の時代に整備された堀がとても美しく保存されていて、この近江八幡市には年間300万人の観光客が訪れるとの事だそうだ。今ではその景観が美しい近江八幡市だが、それは住民の努力があってのことだ。その近代を調べれば、いかに多くの住民がこの町を美しくするために努力してきたかよくわかる。

   戦後、車社会へと移行した我が国は、各地の城下町にあった堀を埋め立て車道や歩道、または駐車場へと変えていったのだが、もちろん近江八幡市も昭和40年代になるとそんな要請が住民から上がったそうだ。と言うのもその頃になるとさすがに堀は無用の長物。悪臭が漂うゴミ捨て場となっていたので、そんな要請が市に来るのもまあ分る。実際に48年には埋め立てが始まったのだが、青年会議所の方々が中心となり、堀の保存運動を始めた。そのスローガンは 『堀は埋めた瞬間から後悔が始まる』 全面浚渫(浚渫:川底の土砂などを取り払う工事のこと)を目標に清掃活動を始め、昭和50年には堀の全面浚渫が決定。当時全国に例のない町づくりとしての風景づくりが始まり、そしてその成果が年間観光客が300万人なのである。堀の保存運動を始めた当初 (僕の勝手な想像だが)、保存に反対する人々は結構いたと思われる。景観や町づくりを進めると諸手で賛成する人は少ないからだ。だがその有志の方々のおかげで現在があると言えよう。ホント偉いぞ、近江八幡市青年会議所 !

   僕は街の景観を形作るのはその町の歴史とアイデンティティーだと思っている。便利性や機能性を追求するだけの町では、元来その町が持っている町としての価値が下がると僕は思う。便利性や機能性だけを追求したのが近代だとは思うが、その結果として新聞広告のような町だらけに日本はなってしまった。これを何とか美しく出来ないかと日々もがいている。

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