2013年3月1日金曜日

高鍋の城下町とその景観

   ふとテレビをつけると 『城下町へ行こう』 的な番組をやっていた。やはり城下町は素敵だ。あの質感、そしてあの整然とした空気は城下町ならではの生活美をもっている。しっかりとした景観条例を持っている城下町は今で多くの人々を惹きつけるようで、観光客も多く集まるし、そんな町にある喫茶店などが持つ雰囲気は格別だ。城下町に生まれてたわけでない、僕としてはとてもうらやましい住空間だ。

   僕の母校である名門 宮崎県高鍋高校は宮崎県の中央部にあり、文教の町として知られた高鍋町にある。まだ僕がうら若き高校生だった頃、月に1時間だけあるクラブ活動 (部活動ではありませぬ) に必ず入らねばならず、多くの選択肢の中から5つ選んだ。サッカー・柔道・吹奏楽。。と選んでいたのだが、郷土史研究部という ちんちくりんなクラブがあったので、まあ第5選択だし~と軽くチェックしたら見事に入選おめでとう。学年でお一人だけ選ばれてしまった。。担任の悪意を感じたが、やむなくクラブに行ったら、クラブの参加人数は先生入れてたったの5人。その先生に最初に言われた言葉が 『なぜみんな入ってきたの?』 だった。

   そこで教えてもらったのが、高鍋町は城下町である事、全国の藩都 (はんと) でありながら唯一行政単位で言う 『市』 ではない事だ。そして文教の町 (学問がお盛んという事) として有名で、 『高鍋では学者ぶるな』 と言われていた事。そして上杉鷹山公も偉かったが、そのお兄さんも偉かったという事。上杉鷹山公は 『成せばなる、成さねばならぬ何事も。。』 で有名な江戸時代のあの名君の事だ。当時、地元の歴史にそれほど興味がなかった僕は、よくサボっていた。。今考えると、勿体ないことをしたもんだ。

   高鍋町は城下町であるのだが、城下町っぽくはない。住民はそれほど積極的には景観と歴史を生かした町づくりに興味はなかったようで、元々あった城下町を綺麗に破壊したようだ。そもそも僅か19万石の藩。それほど大きな城下町ではなかったから、仕方ないと言えばそれまでではあるが。。だがもちろん町割りは城下町そのもので、整然と家々がならんでいたり、道の脇にある水路に鯉などを放っていたりして歴史を感じる事が出来る。ただその池はコンクリートとガードレールで囲んであり、とても景観に配慮していて美しいとは言いがたい。

   ところが数年前から町の人々が 『どんげかせんとイカン ! 』 と立上がった。城下町として景観を考えた町づくりにシフトしようと動き出したわけだ。町の商店街の軒先にはデザイナーがしっかりデザインした暖簾 (のれん) を下げたりし、行政と組んで町の雰囲気づくりを始めた。町は景観策定のための懇談会を設け、今年度末の景観計画策定に向け動いているようだ。

   だが残念な事に、この動きを非難する人も多い。税金の無駄遣いだと言ったり、暇な人の余興だと口うるさい人だっている。また歴史には興味ないので自分が経営する店は、斬新なコンクリートの建物にしたいという人も普通にいる。これは景観条例を作る場合必ずぶつかる壁だ。だが僕は歓迎したい。一定のルールで町を作って行く事は明らかに美しいと思うからだ。

   現在は汚いパチンコ屋の廃墟のような町であるが、あと50年後には美しい文教の町に戻ってくれる事を祈っている。

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