2012年7月19日木曜日

島原の乱と、その生き残り。

   ふとテレビをつけてみると、BSで歴史番組をやっていた。僕は普段テレビはニュース以外は一切見ない。その内容は島原の乱。歴史好きの僕にはたまらない。島原の乱といえば、小学校の歴史でも習ったかの有名なキリスト教徒の反乱だ。僕の家のテレビは野球かバライティーばかりなので、僕はそそくさと隣の部屋に行き、久しぶりにそのテレビを見た。最近歴史番組は色々あるとは思う。しかし、既にある程度歴史に詳しくなってくると、歴史の表面だけを紹介している番組は見る気が失せてしまう。それよりもその当時の人々がどんな暮らしをしていたかとか、どんな考えなどを持っていたかなど、ディープな歴史を知りたくなる。今日の番組は(名前は忘れました。。)知識人がでて結構なディープな話をされていたのでちょっと嬉しかった。

   知らない人のために書くが、島原の乱とは江戸初期に起きたキリスト教徒の反乱。首領は天草四郎(美輪明宏の前世!)で乱勃発時は16歳。多くのキリスト教徒と周辺の住民が、年貢の過酷な取り立てなどに怒り、反乱を起こした事に端を発する。反乱軍は当初、島原城を取り囲んだり、島原半島南部にある本渡城などを落城寸前まで追い込んだが、討伐軍が迫っていることもあり、当時既に廃城となっていた原城へ入り籠城戦となった。当時のは幕府は三代目家光の御代。幕府軍は板垣重昌と九州諸藩による連合軍を派遣したが、戦闘の士気は低く、総攻撃は大将である板垣の討ち死にという散々な結果となってしまう。その後、幕府軍は兵糧攻めと方向転換をし、籠城した反乱軍の食料が尽きたのを見計い総攻撃。反乱軍の一人をのぞく全員の37,000人が殺された。そんな事件だ。合掌。。

   その殺されなかった、山田右衛門作(やまだえもさく)という人は元々絵師で、ポルトガル人に絵を習い、南蛮絵師として領主である有馬家や松倉家に使えていた人だ。僕はこの人に妙に興味がある。反乱軍の中では絵師なのに、副将として扱われていた事。自分の嫁子供を含む仲間を裏切り、自分だけ生き残った事。そしてその後幕府の取り調べを受け、口上書が残っているのだが、原城城内の様子を語っている事。色々歴史好きには興味をそそる人だ。もちろん歴史を大きく動かした人ではないのであまり詳しい内容は分ってはいない。しかし、この人のお墓らしい物が宮崎県は日之影町という小さな山村で見つかったと報道で見た記憶がある。僕の親戚は日之影町の人間なので、これはちょっと興味深い。あとこの人が実は日本で一番最初の禁煙のポスターを書いた人らしいです。確か、井伊家のポスターだったはずだが。。

   その後、島原の乱の発端となった、過酷な年貢の取り立てをやったとされる大名は斬首された。江戸時代に大名が切腹した例はあるが、斬首はその一件のみだ。相当きついご沙汰といえる。そして民衆も戦国時代のような武力による強訴はなくなった。江戸時代の一揆は、計300件以上起きているが、ほとんどは話し合いで反対ですと届ける程度だ(幕末はちょっと起きましたが。。またいつか書きます)よってこの島原の乱により、本当に戦国時代が終わったと言う人もいる。まあ僕は生類憐れみの令がでるまでは、戦国の気風があったとは思うのだが。。

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