2013年8月9日金曜日

近代と空間について

   最近、建築について改めて勉強している。建築とは芸術的な観念も含まれているので、だれも教えてくれるものではないし、教えはしない。よって自分で本や図面、また実際に建っている建物を眺めて建築家の意図をまさぐるような作業の繰り返しである。建築家が 『空間』 を意識し始めたのは近代に至ってからのことだろう。それまでは、ヨーロッパやアメリカなどは、様式が建築家を縛っていた。つまりカタチありきの状態から建物を作るというのが当たり前であった。事実、ある時代まではオーダー (ギリシア生まれの列柱の事) の各部分の比率について議論するのが建築家のあり方という観念があったようだ。だが産業革命の成果により、金属やガラス、そしてコンクリートなど新しい素材や工法を用いればどんなカタチにでもできるようになり、出発点としてのカタチを意識する必要性がなくなった。

    だからといって何でもよいかと言えばそうとは言えないだろう。近代建築が始まって間もない頃、いろんな建築家が自己主張を始め、実を伴わないカタチだけ追い求めた建築家はわんさかでてきた。そこで建築家が行ったのは 『目的』 そのものを変える事だと思う。つまりカタチだけ追い求めないという事である。それ以前は、モノそのものを目的として住宅などを作っていたのであって住空間を作っていたのではない。教会を作っていたのであって、宗教施設を作っていたのではないだろう。 『空間』 というカタチの無いものを目的とする意識転換から近代建築は始まったと言って良い。

   だが、そうは言っても全時代のカタチを踏襲しなければ、それらしく見えないものもある。例えば、希にコンクリート製の神社を見ることがある (僕の町の護国神社もコンクリ製。。) 神社はそのカタチがそもそも神社である。それを近代建築の象徴であるコンクリート製にする意味は。。長持ちするかな。。ぐらいしかない気がする。建築家がいくら建築理論をかざしたところで、神社は木でないとしっくり来ないし、ありがたみを感じない。なので参拝者は増えることはない。だが頼まれた設計屋も苦労しただろう事は同業者として同情はしている。。

   安藤忠雄という建築家がいる。安藤さんが設計した代表作の1つに光の教会がある。建物は安藤建築によく見られる打ちっ放しのコンクリートで、礼拝堂の後ろに象徴的な十字架状のスリット窓が壁面いっぱいに設置されている。安藤さんはこのスリットガラスは入れたくなかったと聞く。だが協会側が頼むから入れてくれとお願いしたのだそうだ。まあそうだろう。ガラスが入っていなかったら、雨も鼠も入ってくる。この教会はプロテスタントの教会であり、偶像崇拝につながる恐れのある聖母像や壁がなどの装飾は一切無い。だがその十字架の窓からはいる光が中央の通路を駆け抜け、空間論がとても心地よく生きている建物だと思う。

   現代は、外部は外部だけ、内部は内部だけといった建物ではなく、外部と内部がお互いを意識する建物が多くなってきた。良いことだとは思う。ただ宮崎の色々な展示会にお邪魔させて頂いているが、まだカタチから抜け出せていないような気がしている。そこを乗り越えて行かねばならないとは思っている。

   だからといって光の教会が好きかと言えば、別の話ではある。

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