2013年2月25日月曜日

崇徳帝の呪い。。

   久しぶりにびびった。ふとニュースを見ていたら、とあるタレントさんが自分の子供に崇徳(むねのり)ちゃんと名付けたそうだ。おいおい、それは普通だったら、崇徳(すとく)と呼ぶんだ。。どうやら崇徳天皇の事を知らんようだ。知っていたら普通は避ける名前だ。崇徳天皇と言えば、日本最強の祟り神。。鎌倉時代の動乱を描いた『太平記』では魔界の王と位置づけられている、すんごいお方。知らんって事は恐ろしいもんだ。この子の将来に幸あらんことを他人の子だが祈るだけだ。

   崇徳天皇は、第74代・鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、5歳で即位し天皇となった。平安末期のお話だ。鳥羽天皇の子供という扱いだが、実は鳥羽天皇の父親である白河法王と鳥羽天皇の奥さんである体賢門院(たいけんもんいん)が浮気して出来た子と当時から噂があったようだ。本当かどうかはもちろんわからないが、『古事談』には、鳥羽は一応第一子である崇徳を『叔父子』と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。

 白川が健在な頃は平穏無事に天皇で、当然の白川が亡くなると鳥羽さんは崇徳天皇を退位させ、まだ2歳の我が子である近衛天皇を即位させた。その近衛が若くして急死すると、もう一人の我が子の後白河天皇を即位させ、崇徳は父親(一応?)に無視されて育ったようだ。 

しかし、鳥羽が死んでから後白河と崇徳の権力争いが勃発。お互い側近の貴族や武士を巻き込んで勃発したのが『保元の乱』だ。この戦で崇徳は負け讃岐(香川県)へ島流しとなる。ここで崇徳が始めたのが、乱でなくなった人々への供養と、熱心な写経だった。この日々の暮らしで溜った写経を京都の寺に収めたかったらしく朝廷に打診したのだが、後白河は 『呪いが込められている』 と受け取らず突き返した。この事に崇徳は激しく怒り、 『日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん』 『この経を魔道に回向(えこう)す』 と血で書き込み、そして髪や爪を伸ばし続け、夜叉のような姿となり、生きながら天狗になったと言われている。

   この後、多くの祟りが京の都で起きたとされる。だが一番の祟りは朝廷の世を終わらせ、武士の時代となった事だろう。崇徳の頃から約700年もの間、朝廷には力はなく、そして天皇の食事も事欠く時代だってあったことを考えると、『皇を民とし、民を皇とす』という崇徳の呪いは達せられたのかもしれない。

   朝廷はこの呪いを本当に信じていたフシがある。武士の世が終わる大政奉還の寸前である慶応4年(1968年8月)、後の明治帝は自分の即位の礼を執り行う前に、勅使を讃岐に使わし、そして崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させている。そして京に神社を作らせた。そろそろ許してよという事らしい。

   藤原道真や平将門と並び、『日本三大怨霊』と呼ばれる崇徳天皇。未だにその讃岐にある縁の神社や陵(お墓の事です)などにテレビカメラが入ったらカメラが写らないなど、いろんな恐ろしいトラブルが発生したりするそうだ。そんな名前つけるのは、ちょっとそら恐ろしいと思うんだが。。

   だが、本当に日本を呪って死んだかは分らない。配流先で崇徳が『思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを』と詠んだと記述が残っている。しかし、考えれば寂しい人生だったのかもしれない。おじいさんとお母さんの子供として生まれ、そして父親に嫌われ兄弟で戦い、そして島流し。辛い人生だったのは容易に想像がつく。じゃあなおさら。。

   この新しい命に幸あれと祈るだけだ。

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