2013年4月1日月曜日

里山に青い橋

   明治29年だったか、河が各地で氾濫し多くの近代的な堤防や橋が流され大きな問題となった事がある。元来、日本人は河に堤防は普請したが橋が架けられるのは希であった。堤防を作るのはお米の収穫量を上げる上で重要だ。戦国末期に完成した信玄堤(しんげんつつみ)は良く出来ているし、今でも現役なのがちょっと嬉しい。だが現代の我々見れば不思議な事だが、武家政権が長く続いた日本では架橋する発想自体がなかった。武士らにとっては河は天然の堀である。自分の領内の道幅を広くした事でも知られるあの革新的な織田信長でさえ橋普請したという話は聞いたことがない。もちろん小さな橋ぐらいは作っているだろうが、大きな橋という発想はなかったようだ。もちろん技術的に大きな橋を作るのは難しかっただろうが、当時は船橋と呼ばれる浮き橋を場合により使っていたので、それほど必要性は感じなかったのかもしれない。明治初めから文明開化という西洋の学問が津波のように押し寄せた日本は、それら西洋の土木技術を駆使して堤防や橋を普請した。それらが流されて明治政府は面目丸つぶれで、新聞は今と同じように政府批判を繰り返したようだ。明治29年と言えども、まだ武士階級の人々が普通に暮らしていた時代だ。そんなご時世にあの元幕臣である勝海舟が新聞のインタビューに答えている。『なんだい ! 天明や天保の大洪水でも、何の屁の河童と幕府は済ましていたものの、ちょっと山が放尿したぐらいで手も足も出ないって ! 』 山が放尿って。。

   宮崎の田舎町などを車で走っていると、戦前に作られた橋を通る機会が多い。コンクリートで作られているのだが、既に苔むした表面を見れば石橋と見まごうてしまうほどだ。僕の勝手な憶測だが、戦前はそれほど車は走っていない。なので車がこれほど走ると設計段階で想定はしていないと思う。もちろん全てがそうとは言い切れない。軍の道路もあったようで、それなりには作っていた。だが当時の戦車や装甲車は今ほどには重量があるわけではない。よってそんな石橋のような橋を渡る際は結構びびっている。落ちる時は万歳言いながら。。などと思いながら走っているのだが、一般の人々は全ての橋などは国や市町村の現況診断などが入っていると思いがちだ。だが、予算の関係で全ての橋はされていない。特に地方の零細市町村などは大分怪しい。

こんなん多すぎる。。
   なので自民党政権が国土強靱化を進めるのは当然だと思うし、すべき事だと僕は信じている。お金を回すわけだから経済も良くなるはずだ。こんな所にお金は使うべきだよねと今更ながら感心している。どこかの政党が、公共工事ばかりに金をばらまいて失われた20年にうんぬん。。なんて言っているが、少なくとも失われた3年よりはマシだと思う。

   ただ、古い橋をバンバン壊し新たな橋をポンポン作れば良いとは僕かて思はない(近所の土木業者さんはとても期待しているようだが。。) もちろん修復不可能な恐ろしい橋は壊さねばならんだろうが、メンテナンスで十分な橋はしっかり手を入れて使っていくべきだと思う。仮に新たに作る場合でも少しはデザインを練って欲しいと思うし、伝統や景観に配慮して欲しいと思う。田舎などに住んでいると、なぜそのペンキで塗ったのさ。。と言うような原色のペンキを塗りまくった鉄橋が田園風景の中で異様な存在感を出している。こんな橋を作って、町の雰囲気を台無しにしているのが分らないのだろうかと毎度の事ながら思う。これではイカンのだ。

   昔から日本の土木屋さんはあまりデザインや景観への配慮はなかったと思う。機能美だけを追求していたと僕は思う。でなければあのような原色の橋は生まれなかったはずだ。現在、いろんな大学で土木工学科があり、色んな方々が構造はもちろん、土木デザインなどを勉強されていた人々が多い。そんな方々を集めてコンペなどをできる限りするべきだ。そうすればそれなりの水準の橋のクォリティーは担保できる気がする。

   出なければ、あの赤や青~い橋が山里に乱立しかねない。

   そんな気がしている。

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