2014年1月9日木曜日

街を小さく美しく

  こんなブログを書いているせいか、稀に『景観まちづくり』をされている関係者さまにお呼ばれする事がある。そんな時によく聞かれるのが、どうして日本はこんなに景観が悪くなったのか?また、どうすれば景観が美しい街を作れるか?という事だ。別に僕は景観に関するブログを書いているからと言って景観アドバイサーだというつもりはないし、その自覚もない。だが一応僕なりの意見を言わせて頂いてはいる。

  なぜ日本の景観はこれほど悪いのか?日本の景観という事は、対比としてヨーロッパなどの景観先進国があるのだと思うが、ヨーロッパなどの古くからある景観がある一定の基準を持ち統一感のある街並みが良好な景観だとすれば、日本は当初から景観への『志』自体を持ち合わせていなかったというのがその答えなのかもしれないと僕は考えている。

  ヨーロッパなどの景観先進国とよばれる国々では、個人の建物も含むすべての建物は公共物という観念が強い。たいていの場合、街並みはその地域の建築家と行政が協議し、ある一定のラインを決めたり、国が関与しているところが多いようだ。だが、日本は景観への意識が元よりないに等しいので、個人住宅を作るという事は単なる財産権の行使であったりする。

  この日本的な街づくり。これ自体が悪いのか?と言えば、そうとも言い切れないと僕は設計屋のくせに思っていたりする。ヨーロッパの家などはもともとは石造りであり、これを大型化するために建築家と呼ばれる専門的な職業が必要とされたからこそ、この建築家が街づくりにも携わる事へのコンセンサスがとれ、ある一定の景観的な基準を保ってきたのではないかと思う。また政治的、社会的、そして宗教的な要求もあったのだと思っている。だが日本の場合だと木材が豊富なわけであり、木造が中心だ。石材などと比べ比較的簡単に作れる木造建築は建築家という専門職を必要性はそれほどなく、また基本的には地域の木材や土などを使用していたわけであり、統一した景観的な基準を作る必要性自体がなかったので、ヨーロッパ的なコンセンサスは必要なかったのだろうと思う。

  ではどうすれば美しい景観のある街並みを作ればよいのだろうか?これが実に難しい。景観先進国のように、昔から景観へ対するコンセンサスが取れている国々なら、市などの景観条例を触ればよいだろうが、日本の場合はそうはいかないだろう。日本の場合だと景観へ対する考えは意識の高い人々の中でもかなりの違いがあるし、もちろんその意識を持っていない人々だって普通にいる。それにこれ自体が悪いことだとも僕には思えない。八百万の神々が住む国にコンセンサスの統一自体、ガタい無理がある。

  最近僕が考えているのは、街全体を一つのルールで縛るのではなく、一つの地区、もしくは一つの通りだけ、本気で美しくしようという事だ。別に大きい通りである必要はなく、できるだけ参加する人間も少なくてよい。大勢いるとコンセンサスは取るのも難しいし、嫌だって人だってもちろん出てくるからだ。なので人間は少くなく、有志だけで良いと思う。その指定した地域には、もちろんそこだけの基準を作り上げ、それにしたがって街並みを作っていく。そうすれば、自然と人々も面白いことをやっているグループがいると注目をしてくれるだろうし、そうすれば自然発生的に他の地区や通りも真似をしてくれるのだと思う。

  それが日本で景観を美しくしていく手法なのではないかと、最近思ってきている。

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