2012年1月9日月曜日

地元の暗い歴史

古墳は綺麗だ

宮崎の児湯郡という所は、戦国末期に『耳川の戦い』という大きな戦があった。この戦は豊後中心とした北九州一帯を支配していたの大友氏と、薩摩を中心とした南九州一帯を支配していた島津氏の戦いだ。この戦はあの『関ヶ原の戦い』よりも多くの犠牲者を出したほど大きな戦で、その後の九州の歴史に大きく関与する事になる。この戦の中心となった『新納院高城(にいろのいんたかじょう)』は木城町にその史跡が残っており、現在も空堀などが見る事ができる。この戦の中心が木城町と川南町にまたがっているため、町が主催する歴史観光は中々難しいようだ。やればいいのに。。

 木城町の方々はもちろんお城が町の真ん中にあり、興味を持ってらっしゃる方も多いと聞く。しかし問題は川南町。川南町民は興味が無い方が多い。実は川南町は開拓者が昭和の初めにどっと来た。問題は開拓者が決してその土地の歴史に敬意を払わなかった訳ではないだろうが、地元の住民のそれ程ではなかった事だ。実は川南の方々は歴史を煙たがる方もいる。

 例えば、木城町と川南町の境にある坂道。ここは大友軍の陣があった場所であり、この戦いの激戦となった場所。戦後すぐまで建てられた何千という戦没者のお墓があった。当時を知る人によれば昼間でも薄気味悪い程だったそうだ。しかしである。金儲けのため、ブルドーザーで全部撤去して杉が植林されたと聞く。。他にもある、先ほどの坂の近くに『宗麟原供養塔』という史跡がある。これは無くなった兵士を、当時の高城城主山田有信が島津当主である島津義久の命により、敵味方の区別無く供養した慰霊塔なのだが、この供養塔の一部が昔の地震か何かで一部が欠け、無くなっていた。この供養塔を昭和の時代になり改修する事になったのだが、その欠けた一部を見つけた業者は、捨ててしまった。。『本当はイカンのだろけど、調査が入れば時間がかかって銭が全然違うだろ』とその業者の知り合いの開拓出身の方はおっしゃっていた。そんなものではないと思うんだが。。

 川南町は『川南合衆国』と恥も知らずに名乗っているのだが、町の人に『どの辺りが開拓なの?』と聞くと罵声を浴びせる人がいる。実は『開拓』はタブーらしい。なので歴史を調べるなどと言うと、本気で怒られる。『おまえらみたいなジゴロには分らん!』っていわれた事もある。最近分った事なのだが、『ジゴロ』とは薩摩弁で『田舎者』らしい。差別しているのは向こうの方だと思うのだが。

 川南の皆さん。歴史をもっと大切にしましょう。古墳を壊して畑にしたら罰が当たりますよ~。実際に昭和の時代に、古墳泥棒に入った方々は早死にしてますんでね。第一古墳に眠ってらっしゃた方々の血は間違いなく僕らも引き継いでいるんですから。



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