僕がアメリカから日本に帰って来て最初に仕事を始めた場所は京都だった。初めて京都に降り立った場所は、京都駅の南口にあるアバンティーというデパート前のバス停留所。最初に出た言葉が、 『汚ね。。』 とだった。まさか京都という日本でも有数の観光都市に舞い降りてそんな言葉が出てくるとは露とも思わなかった。また京都駅の大きさもど想像以上だし、その北側入口をでると看板だらけのビルディング。パチンコに横文字の看板だらけ。どうも 『おいでやす』 的な感じは全く無い。その看板だらけのビルの裏にそびえ立つ一つの塔を見て、びっくらこいた。ウルトラマンが壊すようなタワーがあるじゃないか。。いわゆる京都タワーである。
家賃が安かったので、京都タワーから200メートルぐらいのおんぼろアパートに住みだし翻訳業をやっていた僕は、毎日のように京都タワーを拝んでいた。当時、僕は建築のけも知らない一般人。ただ景観美については考え出したばかりで、京都タワーはなぜこんなカタチでこんな色なんだとぼんやりとだが眺めていた。その後、夜間の建築学科に通い出し、建築の勉強をしている頃、同期の桜どもと飲みに行く時などこの京都タワーについての論議になった。僕の意見は京都にふさわしくない高さと色なので、ああいった建物は作らない方が良かったというもの。だがあるサクラは違う意見をもっていた。いや下から見上げたら美しいし、既に長年あのカタチを京都に来る人が見上げている歴史的意義を考えると、あれで良いと言っていた。確かに下から見たら美しいと思う。その白い巨塔が空の青に映えるからだ。だがそれじゃ。。京都でなくてもええやないか。。
実は京都タワーは鉄骨を一切使わず、特殊鋼板シリンダーを溶接で繋ぎ合わせて作ってある。筒状の建物で、下から見上げたら、そのすべすべのお肌はドモホルンリンクルのようで美しい。そのデザインのコンセプトは、京都の瓦葺きの屋根を波に見立て、タワーはその波を照らす 『灯台』 として設計したそうである。
建物をデザインをする場合のコンセプトに物語性を持たせる手法はよくデザイン屋さんが用いる。不勉強なのかもしれないが、僕から見れば洒落だ。。僕が設計する場合は周りの景観に邪魔をしない事と歴史を鑑みる事を第一にと考えるので、どうもこういった ”まんま” の考えとカタチには賛同はする気が起こらない。例えば東京スカイツリーのコンセプトが 『日本刀』 と発表された時など、朝日新聞だったと思うが、掲載されていた写真が日本刀そのまんま。実際建てられた建物を見て、僕なんぞはほっとしたもんだ。スカイツリーがまんま完成していたら今のように人気はなかっただろう。まんまはイカンよ、まんまは。。
この京都タワーは昭和39年の建設時、大きな論争が巻き起こった。実はこの論争は、日本初の景観論争と言われているようだ。その賛成論者は、 『エッフェル塔も建設当時は反対意見があったが、今はパリのシンボルになっている』 とか、 『京都もこれまでのような寺社仏閣などでは観光客も減る。近代的な物を建てる必要がある。京都らしさはタワーを作ったぐらいではなくならない』 というものが多かったと聞く。また反対派は 『今まで京都は東寺の五重塔より高い建物を作らないという不文律がある』 とか 『タワーの建築自体はよくても、周りとの京都の町並みにはそぐわない』 というもの。主に賛成派は政財界から、そして反対派は学会や文化人らから出ていたようだ。またこの論争は京都市内の規模で行われていたわけではない。建設に反対したノートルダム女子大のJPオシコンヌ教授が反対したのがきっかけで、作家の谷崎潤一郎や川端康成、日本を代表する建築家である丹下健三やあのブルーノ・タウトも反対に回ったそうだ。結局は反対派を押し切り、と言うより無視し、建てることになった京都タワー。いざ建てるには、建物としては法的には厳しかったようで、工作物として作られているようだ。
京都の知り合いなどに聞くと、旅行から帰ってきたりしてあのタワーを見るとほっとするそうだ。まあ時が慣れさせたのだろう。だが僕からみれば京都の灯火として作られたタワーは、波であるべき伝統的な瓦でできた勾配屋根を消していった張本人である気がしてならない。京都タワー建設を分岐点として京都の景観は乱れだしたような気が僕にはする。これは京都だけではなく日本の景観行政の分岐点のであったと僕は考えている。
だが、なぜ京都の人に 『ロウソクでしょ?』 と聞くと 『あれは灯台や ! 』 と鬼をとったように言われるのかは未だに分らん。。
京都の人々があの塔を好きなのか嫌いなのかもよく分らん。。
建物をデザインをする場合のコンセプトに物語性を持たせる手法はよくデザイン屋さんが用いる。不勉強なのかもしれないが、僕から見れば洒落だ。。僕が設計する場合は周りの景観に邪魔をしない事と歴史を鑑みる事を第一にと考えるので、どうもこういった ”まんま” の考えとカタチには賛同はする気が起こらない。例えば東京スカイツリーのコンセプトが 『日本刀』 と発表された時など、朝日新聞だったと思うが、掲載されていた写真が日本刀そのまんま。実際建てられた建物を見て、僕なんぞはほっとしたもんだ。スカイツリーがまんま完成していたら今のように人気はなかっただろう。まんまはイカンよ、まんまは。。
この京都タワーは昭和39年の建設時、大きな論争が巻き起こった。実はこの論争は、日本初の景観論争と言われているようだ。その賛成論者は、 『エッフェル塔も建設当時は反対意見があったが、今はパリのシンボルになっている』 とか、 『京都もこれまでのような寺社仏閣などでは観光客も減る。近代的な物を建てる必要がある。京都らしさはタワーを作ったぐらいではなくならない』 というものが多かったと聞く。また反対派は 『今まで京都は東寺の五重塔より高い建物を作らないという不文律がある』 とか 『タワーの建築自体はよくても、周りとの京都の町並みにはそぐわない』 というもの。主に賛成派は政財界から、そして反対派は学会や文化人らから出ていたようだ。またこの論争は京都市内の規模で行われていたわけではない。建設に反対したノートルダム女子大のJPオシコンヌ教授が反対したのがきっかけで、作家の谷崎潤一郎や川端康成、日本を代表する建築家である丹下健三やあのブルーノ・タウトも反対に回ったそうだ。結局は反対派を押し切り、と言うより無視し、建てることになった京都タワー。いざ建てるには、建物としては法的には厳しかったようで、工作物として作られているようだ。
京都の知り合いなどに聞くと、旅行から帰ってきたりしてあのタワーを見るとほっとするそうだ。まあ時が慣れさせたのだろう。だが僕からみれば京都の灯火として作られたタワーは、波であるべき伝統的な瓦でできた勾配屋根を消していった張本人である気がしてならない。京都タワー建設を分岐点として京都の景観は乱れだしたような気が僕にはする。これは京都だけではなく日本の景観行政の分岐点のであったと僕は考えている。
だが、なぜ京都の人に 『ロウソクでしょ?』 と聞くと 『あれは灯台や ! 』 と鬼をとったように言われるのかは未だに分らん。。
京都の人々があの塔を好きなのか嫌いなのかもよく分らん。。
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