徳川幕府は朝廷に正式に和宮の降嫁を依頼したのは、幕末の一大事件である桜田門外の変から1月半後。幕府の権威は地に落ち、そうとう幕府も焦った。地に落ちた権威をなんとか持ち直そうと願った幕府が、朝廷を抱え込もうと目論んだ。いわゆる公武合体というやつだ。嫌だ嫌だと言っていた朝廷も幕府にすかされ、最後には折れて降嫁となる。だが朝廷は朝廷で、もちろんこの降嫁には目論見がある。そもそも当時の朝廷の石高は約10万程度。とてもやとても良い暮らしなどはできない。実際、幕末に暗躍した下級公家である岩倉具視は、自宅を賭場として貸している事からもよく分かる。それに時の孝明天皇は大の異人嫌い。この降嫁には攘夷決行を条件として付け加えている。とにかく当時の世相はとても悪い。日米通商条約が締結されて数年が過ぎ、以前とは米の価格が2倍となっているし、攘夷派のテロが頻発している。攘夷派から見れば天皇の親族が徳川家に人質を送るようなものなので、とても心穏やかではない。しかし絵に描いたような政略結婚だ。。
日本の皇女が武家に嫁ぐのは歴史上一度も無い。またこんな世相の時期なので幕府としては見栄を張らなくてはならんかったのか、とんでもない花嫁行列となった。1861年10月15日の事だ。京都を出た花嫁行列は総勢2万6000人もいた。2万6000人といえば、ほぼ軍隊。。おおよそ100万石の大名が戦闘時に繰り出せる兵力動員数にあたる。関ヶ原の戦いでの家康の本陣が約3万だった事を考えるといかに無理しているかよく分かる。そして、人通りが多い東海道をさけ、中山道を一月以上かけて江戸に至った行列の長さは、約50km。。道が狭かったとは言えとんでもない行列で、朝方に先頭が出発したとしても、その夕暮れにはまだ最後尾がまだ出発できなかったそうだ。そしてこの婚礼にかかった予算は、当時の国家予算2年分に相当する900万両を注ぎ込んだ。当時の攘夷派の志士はこの国家予算の明らかな使いすぎにプンプン。そして庶民だってあきれていたようでいろんな文章が残っていたりする。
そして凄いと思うのが、その花嫁普請 (ふしん) と言われるもの。現在の滋賀県のとある町での記録によると、花嫁一行が通る道々の古い家は取り壊して新築。空き地があると汚いという事でこれまた新築。計40数軒を超える家を新築するというお金の使いよう。また全ての道路はを広げないと見栄えが悪いので無理くり広げ、埃がたつと汚いって事で地面は全て石畳に。。とんでもない力のいれ様だ。また当時の男はふんどしでお尻がプリんと出ているので、和宮さんが覗いたらエライ事。男は近づいてはならないという命令が出ていたようだ。
また花嫁道具の一部は中山道を行かず東海道を通ったらしいのだが、大きな大きな花嫁道具が来るって事で地元は大慌て。原寸大の模型を急きょ作り、通れなかった橋は手すりを壊して拡張し、くぐれなかった門はこれまた取り壊し。とんでもない大騒ぎとなった。。花嫁が移動すると言うよりは都が動いて江戸に行く。そんな情景だったらしい。
これほど大騒ぎして武家に嫁いだにもかかわらず、欧米列強が大阪湾に停泊して通商条約の履行を朝廷に迫ったら、お兄さんである孝明天皇はあっさり勅許をだしてしまい、何のなめに嫁いだかよく分からないが、それなりに和宮さんは楽しく暮らしたようだ。まあ、それはそれでよい。
最後に宿場となったとある中山道の宿屋の親父の句が僕にはよかった。最初、泊まることにプンプンしていた親父。だが、あまりにも華やかな行列が来て、みょうに嬉しくなったその日記の締めには、 ”一日限りの都なれども、千年にわたる自慢がうんぬん。。” となっている。実に現金で日本的でよい。
多くの庶民も、そして攘夷派の人だって無駄な銭だと怒っていながら、本番ともなるとなんだかんだでキャッキャ言っていた。そんな気がする。僕が当時に生きていたら、絶対最前列の席を取りに行く!シートを貼って女装してる!
そして凄いと思うのが、その花嫁普請 (ふしん) と言われるもの。現在の滋賀県のとある町での記録によると、花嫁一行が通る道々の古い家は取り壊して新築。空き地があると汚いという事でこれまた新築。計40数軒を超える家を新築するというお金の使いよう。また全ての道路はを広げないと見栄えが悪いので無理くり広げ、埃がたつと汚いって事で地面は全て石畳に。。とんでもない力のいれ様だ。また当時の男はふんどしでお尻がプリんと出ているので、和宮さんが覗いたらエライ事。男は近づいてはならないという命令が出ていたようだ。
また花嫁道具の一部は中山道を行かず東海道を通ったらしいのだが、大きな大きな花嫁道具が来るって事で地元は大慌て。原寸大の模型を急きょ作り、通れなかった橋は手すりを壊して拡張し、くぐれなかった門はこれまた取り壊し。とんでもない大騒ぎとなった。。花嫁が移動すると言うよりは都が動いて江戸に行く。そんな情景だったらしい。
これほど大騒ぎして武家に嫁いだにもかかわらず、欧米列強が大阪湾に停泊して通商条約の履行を朝廷に迫ったら、お兄さんである孝明天皇はあっさり勅許をだしてしまい、何のなめに嫁いだかよく分からないが、それなりに和宮さんは楽しく暮らしたようだ。まあ、それはそれでよい。
最後に宿場となったとある中山道の宿屋の親父の句が僕にはよかった。最初、泊まることにプンプンしていた親父。だが、あまりにも華やかな行列が来て、みょうに嬉しくなったその日記の締めには、 ”一日限りの都なれども、千年にわたる自慢がうんぬん。。” となっている。実に現金で日本的でよい。
多くの庶民も、そして攘夷派の人だって無駄な銭だと怒っていながら、本番ともなるとなんだかんだでキャッキャ言っていた。そんな気がする。僕が当時に生きていたら、絶対最前列の席を取りに行く!シートを貼って女装してる!
良かったら、ご協力下さい。
嫁入りかぁ
返信削除私にはおそらく縁のないお話ですが…
このお話はまた凄いですね^_^;
現金な一句、逆に人間らしくて好きですね!
あら、独身さんなんですね。
返信削除それだけ品格と文才があるんですから、大丈夫ですよ。
ぱっぱかぱ~な人は、ぱっぱかぱ~な人と結婚するもの。
ぱっぱかぱ~でないんで、相手を見つけるのが難しいだけなんです。
って思いません?
いえいえ^_^;
返信削除そんなたいそうな理由ではないのです!
どちらかというと私はぱっぱかぱぁな方ですよ~
でもどちらにせよ、『嫁ぎ~の!』は、『ないと思います!!』
バカリズムの都道府県ネタも、私は好きです(^-^)
吟じます!!…の人は最近見かけませんね?
都道府県ネタも良いですよね。
返信削除吟じますは、どこ言ったんでしょう?
結構好きだったんですがね。