まず石垣を20歩ほど駆け上ると、いきなり神社がある。名前は舞鶴神社という。まんまである。きっと秋月家が作ったのでろうか、家紋が秋月家のそれだ。通り過ぎるのは簡単だが、昔はお世話になったお家なので拝んできた。しかし立派な神社なのである。ふつう神社は、以前にも書いたが、鎮守の森に囲まれているので神社自体は鳥居から木々が邪魔して見えないのだが、鎮守の森という程のものはないこの神社はとても威厳がある。さすが武家さんの神社や~と妙に感心してしまった。そしてやはり堂々としているのが素敵だ。日本の神社はちん小まい (※読み方注意 宮崎弁で小さいの意味) ものがほとんどだが、この神社はとても大きい。この宮崎には少ないカッけ~神社だ。
神社の鳥居横には民家がある。神主さんの家だろうか。実に素敵だ。お城の石垣が完全に自分の庭である。かっけ~。。周りはお堀に囲まれているじゃないか。。ええの~。。実に住みたくなるような素敵な場所にある家である。またその横には小さな喫茶店。。雑貨屋 ? そんな感じの店がある。 『Open』 と一応は書いてあるのだが、電気がついていないところをみると、きっと 『頼もう~』 と言わねば家人がでてこないシステムのような気がした。
『止めてくれるなご先祖さん、カバンの図面が泣いている ! 』 と仕事の事が頭をよぎったが、まだお城が僕を呼ぶ。『もうちょっとでイイちゃが、上がってキぃ ! 』 そう言われている気がした。ママよ ! ご先祖さまが受けた恩は山より高く海より深い。行くしかないよな~と自分に言い聞かせ、山城 (一応。。) を競歩でお尻をぷりぷりしながら上へ上へと登った。
どれくらい登っただろうか。。気が付けば1分ほど山道を歩いただけなのだが、息があがった。はぁはぁ言いながら上がったその土地は、山城なのに大きな広場がある。 『きっと本丸跡だ~ ! 』 とだ~れもおらんのを良いことに、一人でキャッキャ言うてもうた。そこには小さな看板があった。看板には 『高鍋城本丸政庁 奧御殿跡』 とある。よ~く見たら、これが結構素敵なんだ。御殿である。御殿とは建築上は明確な定義はない。国語辞典などで調べれば、 『貴人が住む立派な家』 ぐらいしか記載されてはいない。写真にあるように決して整然とした左右対称の建物ではなかったようだ。これは日本建築の特徴で、左右対称を面白いと思わない精神から来ているのかもしれない。欧州などのお城が整然とした左右対称なのと比べれば実に日本的で良い。深みが違うのだ。どうやら教育委員会に行けば図面ぐらいはコピーしてくれそうだ。いつか研究してやろうと思った。
奧御殿跡の礎石とその横にある色あせたぞうさんの滑り台を見渡しながら、明治政府は実に勿体ないことをしたもんだと思った。この高鍋城は1874年には払い下げされ解体された。つまり材木などは売り渡されたようだ。残しておけば財産だったのに。。とは思う。当時は明治政府が始まったばかり。西南戦争前夜だ。いつ不満分子がお城に籠もって抵抗するかもしれないと考えたのだろうし、実際に不満分子が立て籠もり籠城戦が長引けば、各地で蜂起が始まったであろう。当時の政府が持つ手持ちの軍隊は鎮台さんしかいない。政府は確実に転覆したであろう事を考えると、やむ終えないかもしれない。でも。。見たかった。。象さんの滑り台に座りながらそう思った。
気が付けば1時間近く徘徊していた。
って事で仕事は順調に遅れている。
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さあ、今日は徹夜だ。
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