今日は宮崎県は北部にある日の影町まで車で行ってきた。というのも母方の婆さんの実家が日の影にあるからだ。僕の母親は僕の地元生まれなのだが、その両親は二人とも日之影町生まれ。なので僕の血の半分は日の影町のモノという事になる。僕のおじさんは猟はやるし蜂蜜も自分で養蜂をする、田舎の神様のような人。そのおじさんが蜂箱を僕のために作ったので来いと言う。よって土産のワイン片手に車を飛ばした。だが日の影町は僕が住む町からは遠い。また道を間違えたので気付けばがっつり3時間半も片道にかかってもうた。。
その蜂箱は、単純に杉の幹にチェーンソーを入れただけのもの。僕が自分で作ってきたモノとは違いとてもシンプルに出来ている。一番原始的な蜂箱である。3時間半もかけて行ったわりには用件は5分で終わったもうた。。だが僕はこのお宅はかれこれ20年近くは来ていない。僕のひい婆さんにあたるそのおじさんの母親が亡くなった時に葬式で来て以来である。ご先祖さんらの墓参りぐらはせねば格好がつかない。おじさんに墓を教えてもらい拝んできた。だが見渡せば、墓・墓・墓。。ごっつい数である。見た目が江戸時代ぐらいのが、た~くさんある。それも狭い敷地にどどっと墓だらけ。現在の整然とした長方形の墓が整然と並んでいるのではなく、無造作に墓石が置いてあるような感じだ。ひい婆さんを拝んだ後に気づいたのだが、婆さん拝むために数人のご先祖さんは踏んだはずだ。。知らんで踏んだんよ。。ごめんね。。ご先祖さん。。
『えらい数やね。。』 とおじさんに聞くと、どうも江戸中期ぐらいからのがこちらにあり、また他の場所にはそれ以前のもあるらしい。。 『んで、ご先祖さんは何してたん?』 と聞くと、宮崎県北の訛りの強いおじさんは、 『ん !? 壇蜜よ』 って言った。。 『えっ ! 壇蜜 ♡ 』 と一瞬考えたが、どう考えたって僕らの壇蜜は江戸時代にはいない。もう一度聞いたら 『島津の隠密よ ! 』 と言われた。。えっ。。僕のご先祖さんは鹿児島だったん !? それも隠密 (おんみつ) って。。
おじさんに色々教わった。ご先祖さんは島津家家中のお侍で、隠密として宮崎県北を探るため派遣されたようだ。いつの時代かは定かではないが、そのまま土着したらしい。宮崎の歴史で県北がきな臭かった時代と言えば、戦国時代だろう。現在の大分の大友氏が宮崎に攻め入めて大負けした 『耳川の戦い』 は九州の関ヶ原とも言われる大戦だった。その時代かもしれない。どうも単純に土着し農家になったようではなく、その後も鹿児島と連絡を取っていたようだ。そのおじさんの家の近所には学校があったという話が残っている。その教師は鹿児島から派遣されて来ていたとの事だ。その学校がいつの時代まであったかは分らないし、学校だったのかそれとも寺子屋程度であったのかはよく分らない。
よくよく考えて見れば、そのおじさんの家は人口が4000人という過疎の町である日の影町の中心部から、車で30分もかかるとんでもない山の中にある。今日は携帯の GPS で行ったのだが、本当に到着できるのか心配になるくらい山の中だ。その集落は人口が70人というとんでもない集落。。人が住むとは思えないくらい山の上にある。またそのおじさんの家の名字は確かに宮崎のモノではなく、鹿児島に多くある名字だ。宮崎県北の日の影町や高千穂町は、甲斐さんや興梠(こおろぎ)さんが多い。そんな土地にはそぐわない名字を持っている。また家紋も名前は知らないが、ごっつい感じだ。。
僕の実家の家紋は典型的な佐々木氏である四つめ菱だ。ルーツは現在の琵琶湖南部にある近江八幡市あたりと聞く。まあ本当かどうかは分らないが、それなりに家系図もある。自分の実家のルーツは知っていたが、母型のルーツは知らなかった。。それも島津の隠密って。。
何か。。リアルじゃん。。
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2013年5月12日日曜日
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草ってやつですかね?
返信削除uranさんコメントありがとうございます。
返信削除草かどうかは、詳しくは分りませんでしたが、一応士分扱いだったようです。
もちろん今となってはよく分りませんが、忍者的なものではないとは思ってますが。。よくはわかりません。