赤備えはかっけ~! |
徳川時代、井伊彦根(ひこね)藩という藩があった。現在の琵琶湖東部にある”彦根城”と”ひこにゃん”はその名残だ。この井伊家は徳川家にっては世襲の専務理事のような家。多くの譜代大名(三河時代からの家来)の中でも、酒井家と井伊家だけが大老職(井伊大老が有名!)に就ける事からも、いかに徳川にとって重要な藩であったかわかる。初代藩士の井伊直正は、家康の信頼厚く、小牧長久手や関ヶ原、また大阪城攻めでは先方に選ばれてもいる。いざ徳川家に何かあった時は、井伊家が先頭になって戦う。そんなお家となっている。そして井伊の赤備えは、つとに有名だ。そんな徳川恩顧の藩であるが、明治維新の先駆けとなった鳥羽伏見の戦いで、ぶれにぶれた。
井伊大老。野田首相ではない! |
鳥羽伏見の頃、総勢5万の幕府軍は京都から大阪までの13里に、長い従深陣地をとった。対する薩摩・長州のクーデター軍はせいぜい3~4千。陣地もへったくれもない。もちろん幕府軍の総大将は徳川慶喜。そして薩摩の大将は西郷隆盛。この西郷さん、この戦いで一番心配だったのは、大阪へ攻め上がる際、後方の琵琶湖方面から、井伊家が攻めてくるかという事だったようだ。よって伊藤博文などを使わして説得している。
この時の井伊家ほど、悲劇的というか、喜劇的な藩はない。家康の時代から先方として活躍していた藩なのに、家臣を集めて入り札(現在の投票の事)とした。大衆討議を開いたという事だ。これは極めて異例で、今まで藩主とその僅かな高級官吏だけで決めていた藩の方針を、『これからどうする?』と、全ての部下の投票にゆだねたわけだ。彦根藩37万石だけあって藩士の数は1万人ぐらいいたらしいのだが、結果 『徳川のために戦う』 と書いた入り札は、たったの3票しかなかった。。徳川家に約300年勤めてきたのに、たったの3票だ。。
当時の多くの日本人に 『薩長を主体とする京都政権を、あなたは認めますか?』 とアンケートをとれば、にべもなく 『認めない』 に”○”を入れるだろう。では 『京都で天皇を擁する薩長政権が新しい時代をつくると思いますか?』 と聞けば、大方“○”といれると思われる。それでは最後に 『そこで、あなたはどういう行動を取りますか?』 と聞けば、ほとんどの人々が沈黙する。しかし、動かざる沈黙ではなく、無言のうちに新しい時代に参加していく。そんなところが日本人にはある。
”ひこにゃん”には、かなわない。。 |
徳川以前には豊臣がいた。だが、関ヶ原では徳川を助け、そして豊臣を滅ばす事に手を貸した人々が多かった。そこには多少の自責と悲しみがあったようで、城内に密かに太閤さん祭っていたりする。祭ればそれで済む。神様は東照権現の家康さまだが、ちょっと流行らなくなったかつての主人の秀吉さんも、豊国神社として祭っている。
一神教のようにはっきりしろと言われても、そりゃ日本人に無理だ。そんな『裏切りご免!』を続けてきたし、これからもやるだろうと思う。だが、そこには後ろめたさもあるが、明るさだってある。そうやって時代を日本人は押し進めてきた。
って司馬遼太郎さんの『手探り日本史』って本に書いてありました。。さすが司馬さんだ!
お疲れ様ですm(__)m
返信削除『野田首相ではない!』と、『って本に書いてありました。』…に思わず爆笑してしまいました。
歴史には疎いので、かなりお勉強になりました。
私は、石河内に眠る、城を守った大亀の伝説が好きです。
ちなみに、高千穂でしたら、住んでましたよ^_^;
最近はなかなか帰省できませんが…
随分山が切り開かれて、道が通り、橋がかかり、通勤や通学には苦労しなくなったみたいです。
高千穂峡で、たまに理科の野外授業でしたよ!
いつでも見れると思い、いまだに雲海は見たことが無くて情けないですが…
さくら小町さん、コメントありがとうございます。
返信削除高千穂に住んでいたって、実にうらやましい。
高千穂峡で、課外授業っていいですね~
しかし、石河内の大亀の伝説知っているとはかなりマニアック。
島津さんに攻められ落ちてるんですが、あそこが城だったってのも凄いな~とつくづく思います。
攻めるのも大変でしょうが、守るのも大変でしたでしょうね。
何となく、寝る場所すら確保しがたいほど急斜面ですから。。
さあ、寝よ。。
おやすみなさいませ。